2025年7月 徳法寺仏教入門講座
日本仏教史28-足利仏教5 御伽草子-
1、御伽草子(室町時代物語)
足利時代を中心に「御伽草子」もしくは「室町時代物語」と呼ばれる物語が約四百種も作られている。今でも広く知られているものとしては『浦島太郎』や『一寸法がある。『浦島太郎』は、古くは『丹後国風土記』・『万葉集』・『日本書紀』・『古事記』から平安期の『浦島子伝』・『続浦島子伝記』にも書かれている物語であるが「御伽草子」では、それまでの神婚・神仙譚から、亀の報恩譚と浦島明神の本地譚を強調するものとなっている。
御伽草子 浦島太郎
「御伽」とは、高貴な人の話し相手をすることで、この当時、将軍や大名の雑談相手の者や、自己の経験談や書物の講釈などをした者を御伽衆と呼んでいた。豊臣秀吉には、織田信長の弟や子供、織田家の旧臣、旧守護家出身の大名、隠居した戦国大名の旧臣、元将軍、豊臣政権の大名などを含め、八百人もの御伽衆がいたという。しかし、徳川時代になると、しだいに少年が起用されるようになり、単なる若君の遊び相手を意味するようになった。「草子」とは草紙・双紙・冊子とも書く物語の綴じ本のことである。つまり「御伽草子」とは、面白おかしいものから孝養を身につけるものまで様々な内容の綴じ本のことで、その多くが絵草子であった。
平安時代につくられた物語の多くは『源氏物語』や『平家物語』のように、公家を対象として書かれたものであったため、登場人物も公家が中心であった。これに対して「御伽草子」では、公家以外に武士・僧侶・庶民が主人公のものも多く作られている。これは読者層が公家以外の様々な層に広がっていたことを意味している。登場する者の中には「道々の者」と呼ばれる者もいる。これは遊行の宗教者や行商人、芸能者といった、貨幣経済の普及によって生まれた、都市・郷村に定住しない新たな階層の者達である。さらに、人以外の鳥や貝が主人公のものまでつくられている。
物語の内容としては、主人公が神仏の加護を得ることで願いを成就させるものが多い。これは当時、僧侶が説教や談義を用いて、自立し始めた庶民に布教を行い始めていたことで、仏菩薩が衆生を救うために仮の姿を俗世に現われるという「和光同塵思想」「が広まっていたことや、寺社が正当性を主張するための縁起物語を盛んに作っていったことも影響している。物語の題材としては『神道集』『などに書かれている寺社縁起や『源氏物語』・『伊勢物語』・『平家物語』・『太平
1、「和光」は、才能の光を和らげ目立たないように隠すこと、「同塵」は、俗世間に合わせるという意味。「老子」四章「和其光、同其塵」から。
2、南北朝時代中期に成立したとされる。全10巻50話。関東など東国の神社の縁起を中心に、本地垂迹説に基づいた神仏に関する説話が載っている。
記』・『義経記』などから取り入れたものも多い。これらを会話型にしたうえで、当世風にアレンジし挿絵をつけたことで、物語により奥行きを持たせたものとなっている。
2、公家物
平安時代から鎌倉時代にかけて『源氏物語』や『伊勢物語』など公家を主人公にした物語が多く作られているが、これらをアレンジした御伽草子が公家物である。
平安時代に作られた『落窪物語』は、継子話(ままこはなし)3である。主人公の落窪の姫は継母にいじめられていたが、道頼という男性と出会い一緒に生活するようになると、逆に道頼が継母に執拗な復讐をするようになる。ただし、継母は不幸になるのではなく、落窪の姫と仲直りするという物語である。これを受けて作られた御伽草子が『落窪の草子』である。
沢野の北の方は、子供がいなかったので六角堂に願をかけると、姫を授かることができた。しかし、姫が七歳の時に北の方が亡くなってしまい、継母が入ってきた。継母は、息子二人と娘一人を生むと、姫をいじめるようになる。姫の美しさを噂に聞いた関白の子二位の中条が、姫と合う約束を交わす。このことを知った継母は嫉妬し、約束の時間に姫を六角堂に参詣させ、留守の間に訪ねてきた中将に、姫は人さらいにあったと嘘をついた。これを聞いた中将は気が狂い行方不明になってしまう。後日、姫が六角堂に参拝していると、参拝の帰り道で最初に合った者を夫にせよとのお告げを聞く。すると、六角堂に住んでいた物狂いの男と最初にであった。この男も同じお告げを聞いていたので、二人はやむなく夫婦になる。この男が行方不明であった中将であった。二人は関白のもとに帰ると、中将は父から家督を譲られ、姫も北の方として幸せに暮らし、沢野も中納言から大納言に昇進した。
御伽草子 花鳥風月 慶応義塾大学図書館
公家物の中には実在の人物を描いた作品も多いが、その中でも在原業平は、主人公としてだけではなく脇役としても多く登場している。扇に描かれている人物が在原業平であるのか光源氏であるのかを、花鳥と風月という二人の巫女が霊を降ろして判定するという『花鳥風月』という御伽草子の中で、在原業平は生涯に三千七百三十三人の女性と関係を
3、昔話の一系統で、継母の虐待による苦難を耐え忍んだ継子が最後に幸せになり、逆に継母とその実子とが不幸になるというもの。シンデレラもその一つ。
持った人物として登場している。
この在原業平に匹敵する登場回数の女性が小野小町である。絶世の美女の遊女という前提で登場することが多いが、晩年の姿で登場する物語も残されている。その一つが『小町の草紙』である。八十歳を過ぎてあばら家に住んでいた小町のもとに、在原業平が訪ねて来て和歌で問答する。その後、小町は奥州の玉造の小町の草原の中に移り住み、そこで最期を迎えた。その知らせを聞いた在原業平が、弔いの為にその地を訪ねると、美しい女があらわれた。その女と問答をすると、その姿は消え、そこには白骨となった小町がいた。小町は如意輪観音の化身、在原業平は十一面観音の化身であった、というものである。
御伽草子 小町の草子
『神代小町』では、小野小町は小野妹子の子孫として登場する。美しく和歌の道にも優れた色好みの遊女で、十六歳で宮中に召されると、三千人の男から恋文を送られた。ところが、特に小町に想いをかけていた深草少将が病死すると、少将の怨念を恐れた男たちから小町は疎ましがられるようになり、路頭にさすらい物乞いをするようになる。百歳になる頃には逢坂の関寺あたりに庵を結んでいたが、そこに和歌で悩んでいた藤原中将が訪ね、手ほどきを受ける。そこで、在原業平が三千七百三十三の女性と関係を持ったのは、業平が歌舞の菩薩の化身で、女性たちの業を救うためであった事を教えられる。歌合せで名歌を詠むことできた中将が、礼をいおうと逢坂を訪ねると、すでに小町の姿はなかった。晩年、玉造の小町で空から「秋風の」の句が聞こえるというので、その地を訪ね「をのとはいはじ」と句を継いだ。小町も大日如来の化身で、男たちの煩悩を正すために現れた、という物語である。
他に『小町物語』・『小町歌あらそひ』・『小町業平歌問答』などがある。『玉造物語』は、老いさらばえて町を徘徊する女が,往時の贅沢の限りと親兄弟の死によって零落し悲惨をきわめる老境を綿々と語るという物語で、この女が小野小町とは書かれていないが、小町の物語として読みつがれている。小町以外では和泉式部とその子小式部もよく登場する。『和泉式部』では自分の息子である道命阿闍梨と関係を持ってしまう話で『和泉式部縁起』は若くして出家して死んでしまうという悲劇のヒロイン的な人物として描かれている。これらの話は『伊勢物語』や『古今和歌集』の注釈書を基に作られている。
『一寸法師』『ものぐさ太郎』も、庶民物のようでは実は公家の生まれであったという話である。
御伽草子 一寸法師
3、庶民物
オナラの芸で成功する翁と、それを真似て失敗する隣に住む翁が、京の都を舞台にくりひろげるドタバタ劇を描いた『福富草紙』は、足利時代の15世紀半ばに成立して以来、およそ四百年にわたって描き写され、さまざまなバージョンが生みだされている。『福富草紙』の主人公である高向秀武の娘が、老いた尼となってオナラを競いあう『放屁合戦絵巻』という続編の絵巻物も作られている。その『福富草子』とは次のような話である。
職人が多く住んでいた七条に住む香敷師(こうしきし。香を炊くときに香の下に敷く雲母製の香敷(銀葉)を作る職人)で高齢の高向(たかむこ)秀武が、貧窮のあまり妻に勧められて道祖(さえの)神に幸いを祈願した。すると「綾つつ錦つつ、黄金さらさら」となる放屁の術を授かった。市中で評判となり中将殿に召されこの芸を披露したところ、たくさんの褒美を賜り裕福になった。おなじ七条の保(京都の町割りの単位。四町で一保、四保で一坊、四坊で一条)の刀禰(とね。保内の住民に対する追捕検断。家地売買の保証、人夫役徴発などの業務を行った)の福富は、秀武を羨んだ妻にそそのかされて、秀武に弟子入りし術を教わりに行った。秀武は他言無用と断わった上で、空腹時に酒を飲み、朝顔の実を十ばかり飲み、腹が鳴り出したころに尻の穴をこそめて息を止め、一気に屁りだせと教えた。早速、中将殿のところで言われた通りに試みると、屁ではなく中身をあたりにまき散らしたため、白砂を敷いた庭は山吹の花を散らしたようになり、匂いも満ちてしまった。福富は、中将の家来たちに答(むち)で打たれたため、頭や肩か
御伽草子 福富草子絵巻春浦院蔵
4、境にあって外部から村落へ襲来する疫神や悪霊などをふせぎ止めたり、追い払ったりする神。また、行路の神、旅の神、生殖の神ともされる。どうそじん。さいのかみ(塞神)。
ら血を流し、よろめきながら帰っていった。これを遠くから見た鬼婆は、褒美の赤い小袖を貰ってきたと思い、持っていたやぶれた衣を焼き捨ててしまった。それが血で染まって赤くなったことを知った鬼婆は怒り嘆いたが、福富に薬を飲ませ介抱した。秀武を恨んだ妻は御崎の神に呪詛し、通りかかった秀武に噛みついた。その様子は鬼が人を食うような様であった。
説話として屁を取り上げたものは『今昔物語集』・『宇治拾遺物語』・『古今著聞集』などみられるが、いずれも失敗談であり、屁を芸としているのは民話の「屁ひり爺」ぐらいである。これは妙音の屁をひる爺とそれを真似て失敗する爺の物語で『福富草子』と類似している。屁の音も「錦さらさら五葉の松、ちりんぽんがらや」もしくは「あやちゅうちゅう、にしきさらさら、ごようのたからをもってまいろ、ちちんぽん、ぱらりん、ぴいっ、ぷうっ」と似ているが、どちらが先に作られたのかは不明である。しかし『福富草子』のような物語性はなく、ただの滑稽話となっている。
類似の『福富長者物語』は、二巻本である『福富草子』の下巻をもとに作られたもので、妙音の屁を鳴らすのが裕福な福富で、失敗するのが貧しい藤太となっている。また福富の妙音の屁は生まれながら持っていた特技となっている。冒頭に「人は身に応ぜぬ果報をうらやまじきことにぞ侍る」とあることから、物語が伝えようとしている趣旨も異なるものとなっている。
これ以外にも庶民物には『瓜姫物語』・『鏡男絵巻』など多くある。主人公が長者になる物語も多く『文正草子』・『大黒舞』・『梅津長者物語』・『酒の泉』等が知られている。『大黒舞』は、貧しいが親孝行の大悦の助が清水観音に年老いた両親のことを祈ったところ、一本の藁しべを賜った。これが、梨、衣、馬、黄金と変換し、一層親孝行を尽くすと、大黒や恵比寿がやってきて、助けてくれる。帝に召されると中納言の娘と結婚し官位が与えられ、大黒が舞を舞うという物語で、才覚や努力ではなく、善行によって仏神の加護を得て出世するというものである。
4、武家物
鎌倉時代には『保元物語』・『平時物語』・『平家物語』のような武家を主役とする軍記物語が流行したものの、文学作品では主人公のほとんどは公家であった。足利時代代にはこれが融合し、軍記物語の体裁をとった文学作品としての御伽草子が作られる。平将門と藤原秀郷(俵藤太)を描いた『俵藤太物語』は、藤太が大蛇の化身の美しい女に頼まれて大ムカデを退治したという話や、将門を討とうとしたが、将門の身体は金属でできており、左の目には瞳が二つあり、分身が六人もいたため、一旦あきらめ、将門の愛人と密通して弱点を聞き出し遂に討ったという物語である。これ以外にも、源頼朝を題材にした『天狗の内裏』・『浄瑠璃十二弾草紙』・『御曹子嶋渡り』・『義経
御伽草子俵藤太物語
記』、弁慶物の『弁慶物語』・『自剃り弁慶』・『橋弁慶』、源頼光や坂田金時(金太郎)が登場する『酒吞童子』や渡辺綱が活躍する『羅生門』などの化け物・鬼退治の話が多くある。
武家物の中でも、広く読まれ、浄土真宗にも大きな影響を与えたものに『磯崎』がある。
磯崎殿という武士が鎌倉での訴訟を終えて帰国したとき、滞在中に契りを結んだ若い女性を伴って来た。故郷で夫を待っていた本妻がそれを妬み、猿楽師から借りた鬼面を着け、夜間に後妻のもとに忍び込むと、相手を威嚇し揚句には打ち殺してしまう。ところが事終わって面を取ろうとすると、面は顔に付いて離れず、そのまま鬼になりかかった。そこへ、日光山で仏道修行している我が子がやって来て説法した。その話を聞き憎しみを捨てて無念無想の境地に至ったところ、面が取れ、改心した本妻は出家し、結果二人の妻を失った磯崎も出家した。
この中には幾つもの仏教的な歌が入っている。
唱ふれば仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして一遍
桜木を砕きて見れば花もなし 春こそ花の種は持ち来れ
この『磯崎』をもとにつくられたのが、吉崎御坊の『肉付きの面』である。このような、宗教色の濃い御伽草子は、物語の形で仏教の教理を伝えようとした人たちがいたことを表している。
5、異類物
登場人物が人間以外のものも多く作られている。『十二類絵巻』は、十二支の動物たちと狸の軍勢の軍記物語である。両軍は勝ち負けを繰り返すが、最後には、負けた狸が法然上人の弟子となり腹包を打って踊念仏をするというものである。『鴉鷺(あろ)合戦物語』は黒い鳥の仲間と白い鳥の仲間の合戦もので、白い鳥の仲間が勝利するものの、両者ともに出家することで話が終わっている。この様に、御伽草子には最後に出家して終わる話が多い。室町期に多く絵巻が作られた『雀の発心』もその一つである。この物語は、小藤太という雀が子供を蛇に食べられてしまったところから始まる。小藤太の抗議を受けて蛇はしたものの、死んでしまっ
雀の発心
た子供が返ってくるわけではなかった。いろいろな鳥が小藤太のもとを訪れ、弔いの歌を歌ってくれたが、心が晴れることはなかった。やがて小藤太は夫婦で出家し、日本各地を巡った後、雀の森に住み踊念仏を行い百歳まで生きた、というものである。
異類物には生き物以外のものも登場する。その一つが『精進魚類物語』である。これは野菜類(精進物)と魚類(なまぐさ物)とが合戦するという物語で「祇園林の鐘の声、きけば諸行も無常なり。沙羅双林寺の蕨の汁、盛者ひつすひしぬべき理をあらはす。」から始まる『平家物語』のパロディーである。主人公は、越後国の鮭、大介鰭長(おほすけ ひれなが)である。鰭長は息子の鰤(はららご。イクラのこと)の太郎粒実を警護のために京都のこは御料5のもとへ遣わしたが、御料は彼岸会や放生会(ほうじょうえ)のために精進中であったので、魚類を避けて、かわりに納豆の太郎糸重を側近にしていた。これを屈辱として捕らえた粒実は越後に帰ると父にこれを報告した。激怒した鰭長は、魚、鳥、獣、貝たちと共に納豆太郎に戦を仕掛ける、という物語である。登場人物には、なまぐさ方に、鰐(わに。サメのこと)、鮓(すし。なれずしのこと)、鯛などが並び、精進方には、蒟蒻(こんにゃく)、えんどう豆、煎り大豆、、柚皮、紅梅などが連なっている。鮭の反乱を聞いた納豆太の様子が「折ふし納豆太、藁の中に昼寝して有りけるが、ね所見ぐるしくや思ひけん、涎垂れながらがばと起き、仰天してぞ対面する」という風に書かれているなど、物語の内容も笑いを誘うものとなっている。
他に、狐と人間の恋愛ものの『狐の草紙』、鼠と人間の恋愛ものの『鼠の草子』、雁と人間の恋愛もの『雁の草紙』、かざしの姫君と菊の精との物語である『かざしの姫君』、花が女房になる『花女房』などもある。
6、神社縁起物
当時多くの参拝者があった熊野三山には、本宮・新宮・那智以外にも多くの王子が祀られている。熊野にはいくつかの縁起物語があるが、最も古いものは『長寛勘文』「に記されている「熊野権現垂迹縁起」である。これは、唐の天台山の仙人王子信が、日本の鎮西の日子の山峯(英彦山)、伊予国の石槌の峯(石槌山)、淡路国の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山)を経て、紀伊国の熊野新宮にお降りになった。それから本宮に三枚の月形として天降ったという。その八年後、熊野部千代定という猟師が木の梢にかかっている月を見つけ不審に思って尋ねると、月が「我は熊野三所権現である」「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。今二枚の月は両所権現(りょうしょごん
御伽草子『熊野の本地』国立国会図書館蔵
5、天皇や将軍などの貴人を指す言葉。別の意味に貴人が使う衣類や食事などもあり、ここはごはんのこと。「こは」は強のことで、おこわのことになる。
6、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式。
7、平安時代の長寛年間(1163 年 - 1164年)に編纂された勘文。
げん)と申す」とおっしゃったのでこれを祀ったのが熊野三山である、というものである。
『神道集』に書かれている縁起物語は次のようなものである。中天竺の摩訶陀国の善財王には千人の后がいたが、懐妊した后五衰殿を妬んだ九百九拾九人の后たちの讒言によって、王は后五衰殿の首を斬り落としてしまう。首を斬られた后から生まれた王子は喜見上人に助けられ、成長して王と再会する。事実を知らされた王は、王子と上人、そして切り殺した后と共に日本に飛来し、喜見上人が証誠殿(本宮)、善財王が中宮(新宮)、五衰殿が西宮(那智)、王子が若一王子として現れたという。この縁起は、御伽草子の『熊野の本地』となっている。
他にも『修験指南抄』には次のような縁起が書かれている。
中天竺の摩竭提国に慈悲大顕王とその家臣である雅顕長者と長寛長者の兄弟がいた。慈悲大顕王は日本の人々を救うために子供と家臣を伴い日本に飛来した。王は熊野権現(証誠殿)と吉野蔵王権現となった。雅顕長者は天照大神と神武天皇の許しを得て、熊野に十二社権現を祀り、自らもその一つである勧請十五所になった。雅顕長者の弟である長寛長者は伏見稲荷の神となった。慈悲大顕王の子の結と速玉神は、伊弉諾尊と伊弉冉尊と結婚し、若宮一王子、禅師宮、聖宮、児宮、子守宮の五体王子を生んだ。
伊勢神宮の縁起では、西天竺のはらなひ国のけんたつ王の王子めうをん太子は継母にいじめに堪えかねて、父王とともに日本に渡り天照大神となったという『天照大神(てんしょうだいじん)本地』がある。
7、御伽草子に見える宗教事情
御伽草子の中には、当時の宗教事情がうかがえるものも多くある。その一つが『筆結(ふでゆい)の物語』である。この御伽草子は、齢八百歳の白比丘尼と狸との問答を通して、読者に様々な知識を伝えようとしている。狸の「たのしく成候にも調法あらん哉」という質問に比丘尼は次のように答えている。
1、過去の因の知らんと思はば、現在の果を見よ、未来の果を知らんと思はば、現在の因を見よ、と説き給へり。されば今生の貧福は過去の報いなれば、たしなみによるべからず。
2、雖然(しかれといえども)、願ひ求めば福を与えんと誓い給ふ仏天諸神、むなしく捨て給はん哉。又、禍福は門なし、招く所に来べしとも見えたり。
3、先、たのしくならんと思はば、惜しき物を売りて、ほしき物を買ふべからず。安き時、物を買ひて、高き時に売るべし。但、米など買ひ置きて、心に国土の飢餓を思ふべからず。
1は『善悪因果経』の一節で、人の幸せは心がけによるものではない、という決定論であり、
8、6世紀に中国で成立した偽経。偽経とされたことで、成立地の中国では散逸してしまったが、日本では7世紀から8世紀に伝来して以降、そのまま仏典として伝えられている。
中世の人々の間に広く浸透していた。2では「しかれども」と否定し『春秋左氏伝』にある「禍福は門なし、招く所に来べし」を引用し、過去にこだわらず信仰心で福を招くことができるとしている。これも伝統的な神頼みの思想である。そして、3では「秘事」を教えることいって、大切なものは売り、欲しいものは買うな、安い時に買って、高い時に売れ、と商売の秘訣を伝えている。桃源瑞仙(?-1489)は『史記桃源抄』の中で「或人が、人にたのしうなる秘事を教へたそ。惜しくは売れ、ほしくは、なかうそと教たそ。」と言っており、また寛永4年(1627)に出された金儲けのマニュアル本『長者教』の中で「入物をばあまる程もとめ、いらざる物は不足すべし(略)をしき物を売りて、ほしきものをかわずして、銀をは主と思へ。」と言っていることに通。当時、商いが盛んになる中で、投機的な行為が広がっていたことは、御伽草子の『法妙童子』の中で「それ、商人とは、何にてもやすき物を買いとり、高く売り、その利を取り候を、あき人とは申也。」と書かれていることからも分かる。『看聞日記』では、悪徳米商人六人が捕らえられたことが書かれている。しかし3は、単に投機を勧めているだけではなく、最後に米の様な生活に直結するものなどは投機の対象にしてはいけないと誡めている。御伽草子の『鴉鷺合戦物語』では、夏のうちに稲の収穫予想をたて、米相場で巨富を得た鳩が登場していることから、当時すでに米を投機の対象としていたことが分かる。
比丘尼の講説はさらに続く。
毘沙門経にいわく、一には父母孝養のためと願へ、二には功徳善言(根)のため、三には国土富饒(ぶねう)のため、四には一切衆生のため、五には無常(上)菩提のためと願ふべし。若、人ありて此五種の心を除ひて願とも、福徳を得べからず、と見えたり。
『毘沙門経』とは、千五百字程度の訓読された『毘沙門天王功徳経』(資料)という小経典である(資料に添付)。いつどこで誰によって書かれたのか分からない経典であるが、鎌倉時代の『覚禅鈔』10に「毘沙門天王功徳経一卷、世流布小経」とあることから、仏典として広く知られていたようである。この経典を用いたのは唱聞師たちであった。
洛中洛外図 「千秋万歳」の芸を行うために家々を廻る唱聞師
文明9年(1477)の『大乗院寺社雑事記』に唱聞道の職掌として「陰陽師、金口(こ
9、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つ。
10、鎌倉初期に金胎房覚禅よって書かれた、真言宗の諸経法,諸尊法,灌頂などの作法に関する研究書。100余巻とされるが、現存するものは120余巻。
んく)11、暦星宮、久世舞(くせまい、曲舞)12、盆彼岸経、毘沙門経等芸能」と書かれている。また、正徳3年(1713)に成った『滑稽雑談』には「毘沙門功徳経古老伝て云、往昔は元朝の寅の時に、犬神人禁裏日華門の外に来て、毘沙門経の文句を訓読に唱て、祝する儀をなせり。故に此者の党類を呼て、唱聞師と称す。(略)民家へも元朝門にまいりて、毘沙門経とて訓読せし事、中古より侍りし也。当世絶て沙汰なきことなり。尤彼経は、国家を守護し人民を撫育するの功力侍るよし也。委ほかの経を拝すべし。」とある。
唱聞師は「しょうもんじ」「しょもじ」と読み、声聞師、唱門師、唱聞師、聖問師、唱文師、誦文師とも標記した。宗教者というよりは芸能者との側面が強い。平安時代の陰陽道を源流としているが、陰陽師の様な役人でも僧侶や神官でもない、宗教者と芸能者の中間的な存在であった。興福寺に属する「唱聞師」たちは、「猿楽」、「アルキ白拍子」(漂泊する白拍子)、「アルキ御子」(漂白する歩き巫女)、「鉢タタキ」(鉢叩)、「金タタキ」(鉦叩)、「アルキ横行(おうぎょう)」(漂白する横行人13)、「猿飼」といった「七道者」を支配し、金銭を受けとるかわりに巡業の手配を行ったとされる。興福寺や春日大社、法隆寺での猿楽を行った「声聞師座」は「大和四座」と呼ばれる四座があったが、この中の「結崎座」から観阿弥・世阿弥、「円満井座」からは金春禅竹らが登場し、やがて猿楽を能楽へと発展させた。
萬歳
京都の「唱聞師」は、北畠(現在の上京区京都御苑の北東部分)、桜町(現在の上京区京都御苑の東部分、および上京区東桜町あたり)、西梅津(現在の右京区梅津地区西部)、九条河原(現在の南区九条河原町あたり)に集団的で居住していた。なかでも桜町の「唱聞師」集団を「大黒党」、その長を「大黒」と呼び、上記の「千秋万歳」のほか、小正月(旧暦1月15日)の「左義長」(三毬打)、重陽(旧暦9月9日)の「菊の着綿」、といった諸儀式を行った。現在も全国に残る左義長は「唱聞師」たちが残した文化である。本願寺一揆に組したために、織田信長や豊臣秀吉らによって処刑されていった「唱聞師」たちもいるとされている。
徳川時代になると「門付」芸能14の源流ともなるが、多くの「唱聞師」は賤民化し、非人、猿飼、願人坊主(願人)等とほぼ一体化していった。
11、「釈迦の口」のことで「釈迦の言葉」「釈迦等の諸仏の教え・教説・経典」を意味する。
12、鼓に合わせて謡いつつ、扇を持って舞ったもの。白拍子舞が母体といわれる。
13、貢納物,官物等の略奪をこととした武装の盗賊集団の意もあるが、ここでは諸国をわたり歩いた浮浪の民。
14、日本の大道芸の一種で、門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能の総称。正月に門口や座敷でその一家の予祝の祝言を謡う「萬歳」、養蚕の予祝の祝言を謡う「春駒」、農耕の予祝の祝言を謡う「鳥追」、猿回しや傀儡師などの芸人などがある。
京都の町に住む僧尼の様子をうかがわせる御伽草子に『おようの尼』がある。
京白川の辺りの小庵に貧しい老法師がいた。そこへ頭に大きな袋をのせ、衣類や日用品を商う御用の尼という老女が訪れ、身の上話のあと、法師の身の回りの世話をする女性を紹介しても良いとほのめかす。心動いた老法師は早速依頼するが、数日後、どこにも似合いの女性が見つからないと伝える。老法師が慨嘆するので、山崎に住む公家出の美しい尼君に話してみようということになる。山崎の尼君が同居後のことを心配していると聞いて、老法師は決して捨てないという誓約をする。約束の女性が来るという日、老法師は草庵の中を掃除し、酒肴を準備して待っていると、夜になって御用の尼が一人来て、今からその人が来るので大きな声を立てないように、明りを暗くするようにと注意を与え、法師に酒を強いて帰っていった。しばらくして衣を被いた女性がやってくる、もの恥ずかしそうに振舞う彼女に、法師は部屋の明かりを暗くし、盃を勧め、床に入る。翌朝、彼女の顔を見ると、それは七十ばかりの古女で、顔には皴をたたみロには歯がなく、よく見れば御用の尼その人であった。唖然とする老法師に対し、御用の尼はここへ来ようという女性がおらず、捨てないという誓約があったので、自分が身代わりに来たと話し、互いに年齢が近く、所帯道具も似合いなので、世の中に「馴るれば名残の惜しき」ならい、一緒に暮らそう、と居すわる。
「おようの尼」 サントリー美術館蔵
この絵草子には十図の画面があるが、すべて老法師の草庵の場面である。老法師氏の草庵の壁には「南無阿弥陀仏」と漢字で書かれた掛軸がかけられていたが、御用の尼が同居を始めた最終場面では、梵字で書かれた「南無阿弥陀仏」にかけ替えられている。そして最後に
よしこれも思ひさとりの種ならん 弥陀念仏の道に入らなば
我もまたともに願はば彼の国になどかは遂に生まれざるべき
老法師
御用の尼
と二首の歌を詠んで幕を閉じている。
佛說毘沙門天王功徳経訓読
資料
ニョーゼーガーモン イチジーブツザイオウシャーダイジョウチクリンショウジャー ヨーダイビークーシュー センニーヒャクゴージュウニングー(如是我聞 一時仏在王舎大城竹林精舎与大比丘衆 千二百五十人倶)
ニージーアーナン イッシンガッショウビャクブツゴン イーガーインネン シービシャモンテンノウ シンピーコンゴウ(爾時阿難 一心合掌白仏言以何因縁此毘沙門天王身被金甲)
サーシューボウホウトウ ウーシューシューニョイホウジューボウ サーウーソクゲーフー ラセツビシャジャーキー(左手捧宝塔 右手取如意宝珠捧 左右足下跌 羅剎毘闍舎鬼)
ブツゴウアーナン シービシャモンテンノウ シチマンハッセンノクショーブツゴージー ブッポウシーヒョウシーヤー(仏告阿難此毘沙門天王 七万八千億諸仏護持仏法之兵士也)
サーシューボウホウトウ ミョウフーシュークードクミーミョウ(左手捧宝塔 名普集功徳微妙)
ホウトウシーナイグー ハチマンシーセンホウゾウジュウニーブーキョウモンギー ネンケンシャートクムーリョウチーエー(宝塔之内具 八万四千法蔵十二部経文義然見者得無量智慧)
ウーシューシューニョイホウジューボウ ミョウシンダマニージューホウ ユウシュツオンジキエーブクムーリョウザイホウ(右手取如意宝珠棒 名震多摩尼珠宝涌出飲食衣服無量財宝)
シンピーコンゴウ イージョーシーマーシーグン リョウビー イーゴウブクアクゴウボンノウシヨーフーヤー(身被金甲為除四魔之軍両毘為降伏悪業煩悩所趺也)
ヤクウーニーキー ミョウワツランバー ビーランバー(又有二鬼名曰藍婆昆藍婆)
サーキョウウーテンニョー ゴウダイキッショウテンニョー ウーキョウウーイツドウジー ミョウゼンニシドウジー(左脇有天女号大吉祥天女右脇有一童子 名禅尼子童子)
ニャクウーニンオービシャモンテンノウ ケンタイモンミョウシンネンシャー ジョーハチマンノクゴウ ショウジーシーミーサイザイ(若有人於毘沙門天王見体聞名心念者除八万億劫生死之微細罪)
トクヒャクセンノククードク シーオーブッチー ゲンザイゾウチョウムーリョウフクニン(得百千億功德至於仏位 現在增長無量福人)
ブツゴウアーナン ウーブーシービシャモンテンノウシャー トクジッシューフク(仏告阿難有奉仕毘沙門天王者 得十種福)
イチ トクムージンフク ニー トクシューニンアイキョウフク サン トクチーエーフク シー トクチョウメイフク ゴー トクケンゾクシューターフク(一得無尽福二得眾人愛敬福三得智慧福四得長命福五得眷属眾多福)
ロクトクショウグンフク シチトクデンバタノウジョウフク ハチトクサンニョウニョイフク ク
ウメイ(欲得長命者向未申 称名号一百八遍可得長命)
ヨクトクケンゾクシューターコウサイホウ ショウミョウゴウイッピャクハチヘンカートクケンゾクシューター(欲得眷属衆多向西方称名号一百八遍可得眷属衆多)
ヨクトクアイキョウ コウジュツガイ ショウミョウゴウイッピャクハチヘン カートクシュウニンアイキョウ(欲得愛敬向戌亥称名号一百八遍可得眾人愛敬)
ヨクトクシッチー コウホッポウ ショウミョウゴウイッピャクハチヘン カイシツジョウジュー(欲得悉地向北方称名号一百八遍皆悉成就)
ブッセツシーキョウイーセンニーヒャクゴージュウニングー カイダイカンギーシンジューブーギョウ(仏説此経已千二百五十人倶皆大歓喜信受奉行)
ブッセツビシャモンテンノウクードクキョウ(仏説毘沙門天王功徳経)
佛說毘沙門天王功徳経書き下し文
如是我聞 一時、仏が王舎大城竹林精舎にて大比丘衆 千二百五十人とましましき。
爾の時、阿難は 一心に合掌して仏にもうして言さく、『如何なる因縁をもってか此の毘沙門天王は身に金甲を被り、左手に宝塔をささげ 右手に如意宝珠捧を取り捧げ、左右の足下に羅刹・毘閣舎(らせつ・びしゃじゃ、は共に食人鬼)鬼を趺むや』
仏阿難につげたまはく 『此毘沙門天王は 七万八千億諸仏の護持、仏法の兵士なり。
左手に宝塔をささげるは 普集功徳微妙と名ずく。
宝塔の内には八万四千の法蔵・十二部経の文義を具し、然して見者は無量の智慧を得る。
右手に如意宝珠を取り棒げるは震多摩尼珠宝(しんだまにしゅほう)と名ずく。飲食・衣服・無量財宝を涌出す。身に金甲を被すは、四魔の軍を除かんがためなり。 両毘は悪業煩悩を降伏せんがために趺む所なり。又た二鬼あり、名ずけて藍婆・ 毘藍婆(らんば・びらんば)という。左脇に天女あり、大吉祥天女と号す。右脇に一童子あり、禅尼子童子(ぜんにしどうじ)と名ずく。
若し人ありて毘沙門天王の体を見、名を聞いて心に念ずる者は 八万億劫の生死の微細の罪を除き、百千億の功徳を得て 仏位に至り現在に無量の福を増長す。
仏阿難に告げてのたまはく、『毘沙門天王に仕えたてまつる者は 十種の福を得る。
一に無尽の福を得る。二に衆人愛敬の福を得る。 三に智慧の福を得る。 四に長命の福を得る。 五に眷属衆多の福を得る。六に勝軍の福を得る。 七に 田畠能成の福を得る。八に蚕養如意の福を得る。 九に善識の福を得る。十に仏果大菩提の福を得る。
若し人ありて毘沙門に仕えたてまつらんと欲する者は、毎月元三日に身を清め新衣を箸し、東北方に向かひて 毘沙門名号を称念すれば 大福徳を得ること決定して疑い無し。
即ち呪を説いて曰く、 口奄吠室羅摩那耶 娑婆呵オン ベイシラマンダヤ ソワカ』
仏此の呪を説き巳りて 大地震動して毘沙門天王出来たりて大蓮華王座上に坐し巳りて、阿難に告げたまはく『我は此より北方 七万八千里を過ぎて 表あり、名ずけて普光という、城あり名ずけて吠室羅摩那郭大城
という、八十億那由陀の大福聚あり、我毎日三時に此福を焼く。若し人ありて我が福を得ん と欲せば、五戒を持ち、三帰して 無上菩提を願求せば決定して施与して一切於毘沙門の福を成就することを得ん。願ふ所は五種あるべし。一は父母孝養の為、 二は功徳善根の為、三は国土豊饒の為、四は一切衆生の為、五は無上菩提の為に願ふべし。若し人ありて此の五種の心を除いてねがうとも福を得るべからず。
若し人ありて死苦を受けると雖も貧苦を受くべからず、衆苦の源は貧苦に如かず、
福徳を得んと欲する者は丑寅に向かひて 名号を一百八遍称ふれば大福徳を得べし。
智慧を得んと欲する者は東方に向ひて 名号を一百八遍称ふれば大智慧を得べし。
官位を得んと欲する者は辰巳に向かひて 名号を一百八遍称ふれば官位を得べし。
よき妻子を得んと欲する者は南方に向ひて 名号を一百八遍称ふれば よき妻子を得べし。
長命を得んと欲する者は未申に向かひて 名号を一百八遍称ふれば長命を得べし。
眷属衆多を得んと欲する者は西方に向かひて 名号を一百八遍称ふれば 眷属衆多を得べし。
愛敬を得んと欲する者は戌亥に向かひて 名号を一百八遍称ふれば衆人愛敬を得べし。
悉地を得んと欲する者は北方に向かひて 名号を一百八遍称ふれば皆な悉く成就すべし。』
仏此経を説き巳って、千二百五十人倶く 皆大歓喜し 信受奉行しき。
仏説毘沙門天王功徳経
