2025年11月徳法寺仏教入門講座

日本仏教史29-足利仏教7 織田信長1 天下人までの歩み-

1、織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家

織田氏は越前国織田荘(福井県丹生(にゅう)郡越前町織田)の荘官1、もしくは同荘内にある劔神社の神職出身とされている。織田教広(のりひろ)3が、越前・尾張・遠江の守護であった斯波氏に登用されて尾張の守護代を勤めた。15世紀半ばには、伊勢守・織田敏広(織田総領家。応仁の乱で西軍。?-1481)の系統が岩倉城を拠点として北部上半国四郡(上郡)を、大和守・織田敏定(応仁の乱で東軍。1452-1495)の系統が清須城を拠点として南部下半国四郡(下郡)の守護代となった。実権を失った守護・斯波氏は清須の尾張下半国守護代・織田氏が保護していた。信長はこの尾張下半国守護代の一族で、守護代の下で政務つかさどる三奉行家の一つ、織田弾正忠家の出身である。

信長の曾祖父・織田良信(弾正忠家の祖)、祖父・織田信定(?-1538)は勝幡城(しょばたじょう)を拠点に、海運の要所である津島をはじめとする海西郡を手中に収めていった。

この間、隣国の三河国では、西三河の松平清康(家康の祖父。1511-1535)が三河を統一すると尾張に侵攻し、享禄3年(1530)には尾張南東部の城を二つ落としている。さらに、守護代両織田家が斎藤道三(1494-1504)との戦いに苦戦する隙を突いて守山城まで攻めこんでいる。しかしこの最中に、家臣により殺害された(森山崩れ)。当主を失った松平家は存亡の危機に陥るが、幼児であった子・松平広忠(1526-1549)は駿河の今川義元(1519-1560)の助力で岡崎城は維持

劔神社

1、平安中期、有力農民層は国司の許可を得て開発した田畑を私有地化していったが、これを没収されることを防ぐために有力公家や大寺院に寄進することで実質的な土地所有を図った。寄進を受けた公家や寺院は、農民を現地管理者に任命した。これを荘管という。 2、御神体となっている剣は、垂仁(すいにん)天皇の皇子・五十瓊敷入彦命(いにしき いりひこのみこと)が作らせた神剣で、仲哀(ちゅうあい)天皇皇子・忍熊(おしくま)王が高志国(越国)の賊徒討伐に使用したものとされる。社蔵の梵鐘(国宝)に「劔御子寺鐘 神護景雲四年九月十一日」の銘があることから、奈良時代の神護景雲4年(770)にはすでに神宮寺があったことがわかれる。信長は越前平定後、劔神社の劔大明神を氏神として保護している。 3、『建内記』(けんないき)によると、永享3年(1431)3月8日以前に死去していることが分かる。『建内記』は、室町時代の公卿万里小路時房の日記。 4、弾正忠は、監察・治安維持を担当する弾正台という役職の第三位の位階をしめす役職名であるが、ここでは正式に任命されたものではく勝手に名乗っているだけである。ただし、信長は後に「織田弾正忠、平信長」として朝廷に公認されている。

することができたが、父が支配していた地域を守る力は無かったため、代わって今川義元が三河・尾張の攻略に乗り出した。

これに対し信長の父・織田信秀(1511-1552)は、天文7年(1538)、今川氏庶流で将軍奉公衆であった今川氏豊を破り那古野城を落とすとここを居城とし、尾張南東部を支配下に置き、さらに三河に侵攻して安祥(あんじょう)城を攻略した。これに対して、守護の斯波義統(よしむね。1513-1554)は賛意を示し、朝倉氏が支配していた越前国の奪還すらも企画している。

天文 13年(1544)、信秀は美濃へ進攻を始める。この際、斯波義統は尾張国中に信秀への協力を命じ信秀を支援したが、斎藤道三に敗れ、逆に攻め込まれている。この危機を乗り切るため嫡男・信長と道三の娘の婚姻が執り行われている。

天文16年(1547)、松平広忠は岡崎城に迫ってくる信秀に対抗するため、嫡子・竹千代(後の家康)を人質として駿河に送ることを決める。ところが駿河に向かう途中で信秀に連れ去られてしまう。天文 18 年(1549)、松平広忠が暗殺されると、今川義元岡崎城を掌握し、信長の兄・信広が守っていた安祥城を攻略、信広を捕らえ竹千代と交換している。これにより三河は今川義元の支配下となった。

尾張・三河・美濃の地図

天文19年(1550)から21年(1552)、「尾州錯乱5(『定光寺年代記』6)が起こっている。

5、美濃遠征を失敗し、安祥城を今川方に奪われたうえに、信秀自身が病にかかってしまう。このような状況で、天文19年(1550)1月、信秀に従っていた尾張国内の勢力が叛旗を翻し信秀方を攻撃してきた。これは退けることができたが、5月になると今川軍が三河との国境の各所から尾張に侵入を始め、秋口には大軍で知多郡に攻め込んできた。これに対処するため、信秀は朝廷や室町幕府に働きかけ、後奈良天皇による尾張駿河和解勧告を取り付けている。今川方もこの勧告を受け容れ和睦が成立した。この和睦により、尾張の諸勢力は今川氏に融和的な姿勢となり、結果的に今川氏の影響力が尾張東部を中心に浸透していった。この和睦に反対していた信長は、尾張の主導権を握るために活動するとともに、今川方にも挑発行動を繰り返す。これにより、織田弾正忠家内部は信長と弟・信勝を支持するグループとに分かれることになる。 6、定光寺は愛知県瀬戸市にある臨済宗寺院。寺の隣に尾張徳川家初代徳川義直の廟所がある。

2、織田信長の台頭

長子ではないものの、嫡男として遇されていた吉法師(信長。1534-1582)は、元服前に父・信秀から4人の宿老をつけて那古屋城を譲られている。天文15年(1546)、父のいる古渡城で元服し、三郎信長と名乗った。天文21年(1552)、父の死去に伴い18歳で家督を相続する。

清須城には守護・斯波義統と下半国守護代織田信友(?-1555)がいたが、実権を持っていたのは守護代家宿老・坂井大膳であった。実質的に下半国を所有するようになっていた弾正忠家の力をそぐため、坂井大膳は家督を継いだばかりの信長に対して挙兵した。これを信長は、叔父・織田信光(1561-1556)の支援を得て清須に進軍し撃退している。天文22年(1553)、大膳との戦が続く中、信長は今川軍を引き入れていた鳴海城の山口教吉(のりよし。?-1560)を攻め、翌年には知多半島東岸の村木城を奪い取っている。天文23年(1554)、信友が信長を謀殺する計画を企てていることを信長に密告したが、これを知った信友は斯波義統の館に攻めこみ自害に追い込んでいる。難を逃れた義統の子・斯波義銀(よしかね。1540-1600)は信長に助けを求め、信友軍と戦い打ち破っている(安食(あじき)の戦い)。翌天文 24年(1555)、大膳は織田信光を

織田信長像

7、やがて信長によって形式的な尾張国守護に奉じられた。しかし、信長を討って斯波氏の権勢を取り戻すために今川の軍勢を海上から引き入れようとしたことが信長に知られ、尾張を追放され大名としての斯波武衛家は滅びた。斯波氏の京都における邸宅であった武衛邸(ぶえいじん)は、信長によって将軍・足利義昭の居城・二条御所として利用された。その後、三管領家の一つであった河内国の畠山高政の庇護の下にいたが、のちに信長と和解し名を津川義近と改めた。娘の一人を信長の弟・織田信包の長男に嫁がせるなど織田家との縁を深めている。本能寺の変の後は、信長の子・織田信雄の家老となっていた弟・津川義冬(雄光)のもとにいたが、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉に降伏し、その臣下となっている。秀吉政権の下では御伽衆となった。しかし、小田原征伐で降った北条氏直の赦免を秀吉に嘆願した行為が増長であるとして、秀吉の怒りを買い失脚した。後に赦免されたものの政治的な影響力を回復することはなかった。慶長5年(1600)死去。『武衛系図』には見られないが、加賀藩士人持組・津田氏の祖で大聖寺城城代の津田義忠(津田正勝)は義銀の子といわれている。津田家は1万石の禄を食む加賀藩の家老職として代々続き、明治にいたって男爵を授けられ華族に列した。その際に姓を津田から斯波に復して政府に出仕した。

調略しようとしたが逆に信光の謀略にかかり、捕らえられた織田信友は斯波義銀の命により切腹させられ、清洲城は信長の手に落ちている。大膳は駿河の今川氏の下に逃亡したがその後の消息は不明である。この年、織田信光は家臣により暗殺されている。

弘治2年(1556)、隠居していた義父・斎藤道三が嫡男・斎藤義龍(1529-1560)と戦い戦死している。この時、信長は道三を救援するため出陣したが、義龍と通じていた上半国守護代・織田信安(?-1591)8が留守を突いて清須城を攻めている。同年、信長の同母弟・信勝(1623-1650)の家臣・柴田勝家(?-1583)は、信長の宿老・林秀貞(1513-1580)を誘って信勝を家督につけるために挙兵している。信長はこれを破ったが、母のとりなしで信勝と勝家は赦免となった。しかし、この後も信勝の敵対行動が続いたため、永禄元年(1558)、信長は唯一の同母弟である信勝を暗殺している。

永禄2年(1559)、信長は上洛し将軍・足利義輝に面謁しているが、慌ただしく帰国している。これは、この前後に織田信安の岩倉城を攻略しているため、この事が関係していると思われる。しかしまだ尾張国内には反信長勢力がおり、犬山城の織田信清を降伏させるのは永禄 8年(1565)の事であった。

斎藤道三像

今川義元像

尾張1国の統一も出来ていない状態の中、永禄3年(1560)今川義元は2万とも言われる大軍を率いて尾張に攻め込んできた。これに信長軍は2~3千の兵で迎撃し今川義元を討ち取っている。これにより尾張から今川の勢力は一掃された。義元が所持していた「秘蔵の名誉の左文字の刀」は信長の手に渡り、現在は信長・信忠を祀る京

8、永禄元年(1558)長男・信賢を廃し次男・信家を後継にしようとしたため、岩倉城から追放された。その信賢も永禄元年(1558)の浮野の戦いで信長に敗れ、伊勢守織田家は滅亡した。信安は斎藤義龍の家臣となり、義龍の死後もその子・龍興に仕え信長に抵抗したが、美濃斎藤氏が信長滅ぼされると、信安は京都に逃れた。しかしやがて信長より罪を許されて、晩年は信長が創建した安土摠見寺(そうけんじ)の住職になった。信家は信長の嫡男・信忠の家臣となっている。天正19年(1591)死去。

都の建勲(たけいさお)神社9に所蔵されているが、これは徳川家達(いえさと)氏が寄贈したものである。

この戦いの後、信長は三河西部に侵攻したが、永禄4年(1561)には今川から独立した徳川家康と同盟を結んでいる。

この年、斎藤義龍が 35 歳で病死し、14歳の嫡男虎福丸(龍興。たつおき。1547-1573)が継いでいる。これを知った信長は死去の二日後に美濃へ出兵した。信長の同朋衆10を殺害したことで目通りを禁じられていた前田利家は、桶狭間の戦いとこの戦で手柄を立てたことで再出仕が許されている。

桶狭間合戦図

永禄6年(1563)、信長は小牧城に移ると、犬山城主織田信清や尾張北部の犯行勢力を討ち美濃侵攻の足場を固めた。永禄7年(1564)、竹中半兵衛重虎(1544-1579)が安藤守就(もりなり。1503-1582)と共謀し稲葉山城を奪い取り、斎藤龍興は戦うことなく城を追われたが半年ほどで奪還した。永禄9年(1566)、信長は大規模な美濃侵攻を行っているが、増水した川に阻まれ失敗した。永禄10年(1567)、美濃三人衆11の寝返りにより稲葉山城は落城(稲葉山城の戦い)。この際、城を逃れた斎藤龍興は川内長島へ逃れている。信長はこれを追撃し長島に放火しているが、龍興を捕らえることは出来なかった。尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった織田信長は、この時から自らの武を天下に広めんという思いを込めた「天下布武」の印を使用している。

天下布武の印

9、京都市北区紫野北舟岡町にある神社。明治天皇の発案で、明治3年(1870)信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の東京の邸内と織田家旧領地の山形県天童市に造営された。明治13年(1880)、東京から、豊臣秀吉が信長の廟所・天正寺の境内地と定めていた京都船岡山に遷座した。 10、室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。一遍の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれた。 11、美濃斎藤氏の家臣だった稲葉良通、安藤守就、氏家直元の総称。美濃三人衆という括り自体は織田信長に降って以降のものであり、おそらくは先行する三好三人衆の存在を念頭に置いて、それをもじった呼称とされる。長島本願寺一揆で氏家直元は戦死。安藤守就は信長により追放され、本能寺の変後、稲葉良通によって討たれている。稲葉良通は信長・秀吉に仕え 74歳で死去している。号は一鉄(いってつ)。徳川幕府3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の養祖父にあたる。

3、織田信長の上洛

永禄8年(1565)、三好長慶の死後、養子の三好義継を擁して政権を握っていた三好三人衆(三好長逸(ながやす。1515-?)、三好宗渭(そうい。?-1569)、石成友道(いわなりともみち。?-1573))と松永久秀(1508-1577)は、将軍の権威を復活させようとした13 代将軍・足利義輝(1536-1565)を襲撃し討ち取っている(永禄の変)。三好三人衆は義輝の従兄弟・足利義栄(よしひで。1538-1568)12を 14 代将軍に据えようとした。朝廷はこれをなかなか認めなかったが、栄禄11年(1568)ようやく将軍に任じられた。一方、一条院の門跡であった義輝の弟・覚慶(1537-1597)は義輝襲撃の際、寺に幽閉されたが、細川藤孝(1534-1610)らの手引きで脱出し、近江に逃れ還俗して義秋と名乗ったが、六角氏の支援を受けられなかったため、越前朝倉義景(1533-1573)を頼った。足利義秋は、同年内には、自らが正当な将軍継承者であることを主張し、各地の大名に対して上京に協力するよう書簡を送っている。これに家康や信長など多くの大名が応諾しているが、実際に行動に移す者はいなかった。具体的な動きが無いまま、永禄 11 年(1568)、義秋は元服し義昭と改名している。

足利義昭坐像

永禄11年(1568)、信長は北伊勢に出兵し、有力国人・神戸友盛(とももり。?-1600)を攻め、さらに南下し国人・長野工藤氏を攻めた。神戸氏には三男・信孝(1558-1583)を、長野工藤氏には弟・信包(のぶかね。1543-1614)13を養子に入れることで和議を結び、北伊勢の過半を支配下に置いている。信長は足場を固めたうえで、京都までの経路にあたる近江の諸勢力を味方に付け、越前国の朝倉義景の許可を得た後、足利義昭を上洛させるために、義昭の御供衆・和田惟政

朝倉義景画像

12、父は、堺公方いわれた足利義維(よしつな。1509-1573)。本願寺証如により堺公方が崩壊した後は、阿波の細川氏之の庇護を受け平島館に住んだため、平島公方と称された。 13、後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復した。晩年は大坂城で姪孫・豊臣秀頼を補佐したが、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死した。享年72。

(1530-1571)に村井貞勝(?-1582)や不破光治(?-1583)14・島田秀満らを付けて越前国に派遣している。足利義昭は一乗谷を出て美濃国に向かい、岐阜城下の立政寺(りゅうしょうじ)で織田信長と会見すると上洛を開始した。

すでに三好義継(1551-1573)15松永久秀らは義昭の上洛に協力し、これに反対する三好三人衆の牽制に動いていた。一方、三好三人衆と手を組んでいた南近江の六角義賢(よしたか。1521-1598)・義治(よしはる。1545-1612)父子は織田軍と戦うが敗れ音寺城を放棄し(観音寺城の戦い)甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。

大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し、摂津芥川山城に退却した細川信良(1548-1592)16・三好長逸が城を放棄、篠原長房(?-1573)も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。共に阿波に逃れた将軍・足利義栄は到着直後に死去している。

足利将軍家桐紋

山城・摂津・河内を平定した信長のもとに出仕した松永久秀は、大名物の茶入「つくもがみ」を進上し、大和一国の支配を認められている。堺の商人で茶人の今井宗久(1520-1593)17は大名物の「松島ノ壺」「紹鴎茄子(じょうおうなす)」を進上している。

京都に入った足利義昭は将軍に就任した。義昭は信長に副将軍か管領を授けようとしたが辞退している。また、管領・斯波氏の家督を信長にとの話も断っている。ただし、朝廷や幕府は、これ以降、文書や礼式上は信長を管領に準じて扱っている。役職は受けなかったものの、将軍家が用いる桐紋と二引両(ふたつひきりょう)の紋許可は受けとり、桐紋を何度か用いている。信長は新たに、草津・大津・堺を領地とすると岐阜に戻った。

足利将軍家二引両紋

永禄12年(1569)、三好三人衆と斎藤龍興らは、六条本圀寺にいた義昭を襲撃している。これは明智光秀(1516-1582)や細川藤孝らによって撃退したが、信長はこれを期に、斯波氏の京屋敷と真如堂18のあった場所

14、元斎藤家家臣。美濃四人衆に数えられることもある。ただし他の3人とは違い最後まで斎藤氏に尽くした後、斎藤氏滅亡信長に仕えた。 15、三好長慶の実弟・十河一存の子。三好氏宗家の事実上最後の当主。 16、細川京兆家 19代当主。晩年は秀吉の御伽衆となっている。子孫は福島県にあった三春藩秋田家の家老を代々務めた。晩年は秀吉の御伽衆となっている。 17、千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられている。 18、永観2年(984)、比叡山延暦寺の僧である戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である

に堀と石垣をめぐらせた新たな御所の造営を始めた。信長は、治安維持に努めるとともに、公家・寺社の要望を受け入れ秩序の回復に努めた。信長の朱印状も義昭の「御下知」19をうけて出しており、将軍の権威を維持している。これにより、京都の主だった者たちは、信長の入京、義昭の将軍就任を歓迎することになる。また、御所に出入りする者の奉公の仕方を明文化することにより責任の所在を明らかにし、司法も決まりを厳格に守るように指示している。これは政治が私有化されることを防ぐためである。信長には京都で政治を行う余裕はなかったため、大きな改革を行うことは出来なかった。そこで従来の権力機構を厳格に守ることを求めたのである。信長にとっては自分がいなくても足利幕府が機能することは必要であったし、幕府も信長の後ろ盾が必要であった。ただし信長は、幕府が自分抜きで成立することは望んでいなかったし、幕府と共に「天下布武」を成し遂げようとも思ってはいなかった。

信長死後に宣教師によって描かれたとされる肖像画

元亀元年(1570)、信長は義昭に対して、五カ条の条書を承諾させている。第1条は、義昭が諸国へ文章を送る時は、必ず信長の許可を得るというものである。第 2 条は、今まで義昭が送った手紙の内容はすべて破棄するというものである。第 3 条は、もし恩賞を与える土地が足らなければ信長の領分から与えてもよいから相談するようにというものである。第4条は、天下の事は信長に任せるとの事であるから、義昭の許可を得ずに信長の判断で成敗できるというものである。第5条は、天下は平穏であるから義昭は宮中の事を油断なく励むようにというものである。つま

阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁の乱に巻き込まれ堂塔は焼失した。応仁の乱終息後の文明10年(1478)、一条西洞院に寺地を改めるが、文明16年(1484)には旧地である神楽岡にもどって再建されていた。将軍足利義昭の居城を造るため一条通北に移転。しかし、天正15年(1587)、豊臣秀吉によって聚楽第建設のために京極今出川に移転する。寛文元年(1661)本堂が焼失、元禄3年(1690)に本堂が再建されるが、元禄5年(1692)には再び本堂が焼失した。元禄6年(1693)、東山天皇の勅によって現在の左京区浄土寺真如町に移転した。親鸞が修行したとも伝えられている。

19、将軍による決定や命令。

り信長が義昭に求めたのは、朝廷と幕府が京都で安泰に存続する為に努力することであり、それ以外の事は全て信長に任せろといっているのである。さらに、今後信長の都合で行う戦であっても、天下平穏のための戦であるという大義名分を手に入れている。

義昭にこの条を認めさせたのと同時期に、信長は諸国の関わりのある大名・国人に、自分が禁中の修理や将軍の御用を聞くなど天下平穏のため 2月中旬に上洛するので、各々も上洛し天下平穏のために力を尽くすようにという書状を送っている。義昭はこの1年前、本圀寺襲撃された後に、上杉謙信(1530-1578)に対して武田信玄(1521-1573)と和睦し信長と共に天下を支えてくれるようにという書面を送っている。しかし、信長はこの両名には書状を送ってはいない。

この年の4月、信長は先の約定を利用し、若狭の武藤友益が悪行を企てているとの名目で出陣している。さらに武藤をそそのかしたのが朝倉義景であるとして越前まで出兵した。ところが、信長と同盟を結んでいた浅井長政(1545-1573)が越前にい

浅井長政像

金ヶ崎の退き口後の織田信長の岐阜帰還ルート

る信長軍の背後から攻め込んできたため、羽柴秀吉(1537-1598)・明智光秀を殿として京都へ逃げ帰っている。なぜ浅井が信長との同盟を破ったのかは分かっていない。信長は兵を立て直すため岐阜に戻ろうとするが、長政は一揆を利用してこれを阻止した。このため伊勢を経由することになったが、この途中の山中で杉谷善住坊20に鉄砲で狙撃され怪我を負っている。

6月に入ると浅井・朝倉軍と共闘した六角義賢親子が、伊賀・甲賀衆と共に挙兵する。しかし、柴田勝家・佐久間信盛(1528-1582)21らの応戦で退却してしまったため、織田軍に挟まれた形になった浅井・朝倉軍は、美濃の垂井・赤坂周辺に放火するとともに、国境に位置する長比(たけくらべ。滋賀県米原市)・苅安尾(かりやすお。滋賀県米原市)といった城砦に修築を施して織田軍の来襲に備えた。

長比城に配置された堀秀村 (1557-1599)・樋口直房(?-1574)が調略により信長に降り、長比・苅安尾両城は陥落する。これを受けて信長は岐阜を出立し長比城に入った。信長は虎御前山(とらごぜんやま)に布陣すると、森可成(よしなり。1523-1570)、坂井政尚(まさひさ。?-1570)、斎藤利治(としはる。? -1582)22柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆(1534-1589)、羽柴秀吉、丹羽長秀(1535-1585)23らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせ、一旦後退した。改

姉川の戦い布陣図

20、鉄砲の名手であったという以外、その素性も暗殺の動機も不明。甲賀五十三家の一つである杉谷家出身の忍者とも、伊勢国菰野の杉谷城の城主とも、あるいは雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。捕まった後尋問され、生きたまま首から下を土中に埋められた状態で竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。 21、織田信長の筆頭家老として30年間家中を率いていたが、大坂本願寺陥落後、信長から折檻状を送られ織田家からはなれいる。 22、斎藤道三の末子。 23、織田家家老。佐久間信盛失脚後は、柴田勝家に次ぐ二番家老として織田家の双璧と言われた。

4、織田信長包囲網

織田と浅井・朝倉の戦いが膠着状態となる中、7月には阿波に逃れていた三好三人衆が 7,8千の兵で摂津に攻め込み、そのまま野田と福島に城砦を築き立てこもった。8月、信長はこれを迎え撃つため、京都から 2 万とも6万とも言われる大群で出陣すると、義昭も出陣し、紀州根来寺僧兵 3 万も摂津に入っている。この大軍に三好三人衆側から和睦の申し入れがあったが、信長はこれを無視している。この時、信長は大坂本願寺の 10町(約1km)ばかり西の「楼の岸」や、大坂の川向の川口に砦を築かせている。これは大坂本願寺攻撃にそのまま転化しうるものであったため、9月に入ると、本願寺顕如は美濃や近江の本願寺門徒に対して「仏敵信長」との戦いを指示している。さらに浅井長政からの申し入れで同盟を結んでいた。そして、楼の岸と川口の砦に鉄砲を打ち入れると、本陣に向かい出兵している。これを受け、三好三人衆は2万の兵を阿波・

織田信長包囲網の地図

讃岐から渡海させ、本願寺との同盟を結んでいる。

本願寺の挙兵に合わせて浅井・朝倉軍3万が南近江・坂本口に進軍してきた。浅井・朝倉軍は、大津を放火すると逢坂を越えて醍醐・山科を焼き京都に迫って来た。これを受けて信長は義昭と共に京都に戻っている。信長は逢坂を越えて近江へ進軍すると、朝倉軍は比叡山に逃げ上がっている。そこで信長は、比叡山の僧を呼び、自分に味方をするか、少なくとも中立でいることを求め、これを受け入れるなら織田分国内にある山門領を還付する事を約束した朱印状を渡し、もしこれを受け入れないならば根本中堂山王権現二十一社を焼き払うと伝えた。しかし僧たちはこれに応じなかったため、信長は坂本・八瀬・大原口に砦を構え、宇佐山城24に入り、3か月近く対峙することになる(志賀の陣)。

二条晴良像

信長の撤退により三好三人衆は攻勢に出て山城の西一口(にしいもあらい)城25まで攻略している。近江では六角義賢親子が挙兵、各地で本願寺一揆も起こっている。中でも川内長島では小木江城を攻撃し、信長の弟・織田信興を自刃に追い込んでいる。さらに京都では徳政一揆までも起こる。11月には朝倉軍が近江堅田を攻め落とし、全方位から信長は追い詰められていった。この状況の中で、冬を前に帰国を急いだ朝倉が和議を申し出てきた。義昭と関白・二条晴良(1526-1579)26が中心となり条件交渉が進められ、天皇が仲介に入り信長との和議が成立している。浅井氏・延暦寺・本願寺もこれに追従している。和議の条件は、信長が今後比叡山に一切手を出さないこと、大坂本願寺に遺恨しないこと、浅井・朝倉両家とその味方の身分・領地の保証、今後朝倉義景と慎重に話をしてから物事を進めるなどとなっている。

ところが、翌元亀2年(1571)2月、佐和山城の浅井方武将・磯野員昌が信長に寝返ったこと

24、滋賀県大津市南滋賀町にあった山城。湖西周りで京都に向かうには避けては通れない位置にあった。 25、京都府久世郡久御山町にあった城。古来、三方を池水によって囲まれた半島状の地形にあり、淀川への排水口としても重要な役割を果たしていた。かつてこの池の水で疱瘡(いも)を治した(祓った)事に由来する地名。淀川を挟んで対岸には、諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する「与渡津(淀津)」がった。ここに豊臣秀吉が、側室茶々の産所として淀城を築かせている。 26、足利将軍家との血縁関係で関白を独占してきた近衛家に対し、義昭が一乗谷で元服式を行ったときに京都から赴き接近し、義昭が第15代将軍になると、近衛前久を兄・義輝の殺害関与及び前将軍・義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で朝廷から追放した。子息のいなかった九条稙通の養子として長男・九条兼孝を送り九条家の家督を相続させ、鷹司忠冬の死によって断絶していた鷹司家に対しても四男・鷹司信房に相続させることで、近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家の五摂家(ごせっけ)のうち三家を押さえることに成功している。

浅井長政が反攻にたため、この和議は破綻している。4月には本願寺顕如の嫡男・教如と朝倉義景の娘の婚姻が成立した。8月、信長は浅井攻めに出陣すると、南下して金森の本願寺一揆を攻撃し周囲の稲を悉く刈り取らせている。これに一揆勢は人質を出して降伏した。そして、9月には比叡山焼き討ちを敢行している。

この年、3年かけてきた内裏の修築が出来上がっている。信長は天皇家の経済を安定させるため、洛中の町人に米を年三割の利息で貸し付け、その利息の米を毎月納めさせることとした。この米は、全ての田畑1反(3百坪。約1千㎡)あたり1升(約1.5kg)の米を納めることを義務づけ集めたものである。

元亀3年(1573)正月、本願寺顕如武田信玄に、信長が摂津・河内に出陣してきたら背後から攻撃するよう書状を送っている。三好義継と松永久秀は河内で勢力を拡大し、本願寺も紀州の門徒を呼び寄せ信長との戦に備えている。武田信玄は義昭に忠節を誓う誓紙を送り、義昭も協力を求めている。

武田信玄像

7月、信長は嫡男・奇妙(信忠。1557-1583)と共に近江北部に出陣すると、多くの村を焼き田畑の作物を刈り取った。また、寺に避難した農民を皆殺しにもしている。これに対抗するため、浅井長政朝倉義景に援軍を求めた。これに朝倉義景は応えて1万5千の軍を率いて大嶽(おおづく)城27に陣を布いている。これにして、信長は小谷城を落とすための要害や道、築地(堤防)を作った。9月、信長親子が岐阜に帰ると、浅井・朝倉軍は、信長側の備えを崩そうと攻撃をかけたが羽柴秀吉に防がれている。

同 9月、信長は義昭に17条に及ぶ苦情を突き付けている。天皇への奉仕を怠っている。諸国に馬を所望するのはいかがなものか。諸国への書状は信長に見せるという約束を守っていない。元亀という年号は不吉なので変えてほしいと申し入れたのにその費用を進上しないで遅らせている。自分と戦をする準備をしているというがどういう事なのか。などと責めた上で、最後には土民百姓に至るまで、まるで足利義教であるかのようだとあなたを悪く言っていると警告している。

同9月、ついに武田軍が三河攻め込んでいる。10 月には信玄自らも出陣してきたため、信長は家康宿老・佐久間信盛はじめ重臣たち 3 千の援軍を送っている。兵力で劣る家康は浜松城に籠城

27、小谷城のある小谷山の山頂に築かれた城。元々は小谷城のあった場所で、この戦に備え朝倉義景が改修していた。当時としては最先端の山城で難攻不落とされていた。が、大嶽の北にある焼尾丸を守っていた浅井氏家臣浅見対馬守が寝返り、織田勢を手引きして攻めたため落城したという。

する構えをとっていたが、信玄は浜松城を攻撃せず、そのまま三河に向かっていったため、家康は慌てて出陣し信玄を追った。三方ヶ原で待ち受けていた信玄は織田・徳川連合軍を撃破している(三方ヶ原の戦い)。信玄は朝倉義景にこの時の戦で千余人の敵を討ち捕らえたことを報告している。松永久秀は、これで信長も終わりであろうと信玄の上洛に期待している。ところが冬を前に再び朝倉義景が越前に兵を引き上げてしまう。これを信玄は厳しく責めたが、結果、包囲網が崩れることになる。

元亀4年(1573)正月、信玄は遠江国から三河国に侵攻を始める。本願寺顕如朝倉義景にあてた書状で、伊勢長嶋の門徒が岐阜城近くに新たな要害を構えたこと、近江でも門徒が浅井を支えていること、信長と同盟を結んでいる上杉謙信が出陣してきた越中で加賀の門徒が戦っていることなどを報じている。信玄も、顕如と連絡し、遠江・三河・尾張・美濃の門徒の決起を働きかけていた。2月、信玄は野田城を攻略する(野田城の戦い)。さらに東美濃の3カ城の城兵を寝返らせ着々と進行していった。同2月、足利義昭は朝倉義景浅井長政に挙兵の意思を示している。前年10月から信玄の動きに備え岐阜に留まっていた信長は、義昭の逆心に対して、義昭が思い直してくれることに期待し、どのような条件も飲むから和議を進めたいと申し出ている。3月に細川藤孝に送った書状には、明日、義昭に人質として実子を上洛させるから何とかなるだろう、朝倉義景はこちらの備えを破ることは出来ないだろう、上杉謙信に働きかけて信濃・関東に攻め込ませれば信玄は撤退するだろうという、楽観的な見通しを述べている。

信長の大船イメージ復元模型

3月、信長は和議を進めるために上洛する。4月、洛外に放火するが、それでも義昭が和議の応じなかったため、上京に放火してすべて焼きはらってしまう。これには義昭も和議に応じざるを得なかった。しかし、義昭がいずれ敵対してくると考えた信長は、琵琶湖を一度に3千から5千の兵を運べる大船を作らせている。これは長さ 30間(約54.5m)、幅7間(約12.7m)の大きさで、櫂百挺立てで、艫舳(ともへ)に矢倉をあげたものであった。7月に出来上がった船は人々の耳目を驚かせたという。

4月、病状を悪化させていた武田信玄は病死している。しかし、信玄の遺言によりその氏は3年間ふせられることになる。

7月、足利義昭は再び挙兵し、幕府奉公衆であった真木島昭光(?-1646)を頼り槇島(まきし

ま)城28に立て籠もった。信長は出来上がったばかりの大船を使い坂本に入ると槙島に向かって出陣し、あっけなく落城させる(槇島城の戦い)。信長は義昭の子を人質に取ると、義昭は三好義継のいる河内若江城29まで秀吉に送らせている。かつては、この時点をもって足利幕府が滅亡したとされていたが、足利義昭はその後も将軍の地位に留まっており、備後国鞆で毛利輝元(1553-1625)の庇護を受けている。そして、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことであるため、この時点では足利幕府は存続していることになる。実際、足利幕府の直臣である奉行衆、奉公衆などの 100 名以上が足利義昭と共に鞆へ同行していることから、足利義昭の勢力は幕府としての実態を備えていた(鞆幕府)。一方で、細川藤孝ら多くの幕臣は京都に残り、明智光秀の与力として足利幕府の組織を引き継ぐ形で織田政権に携わっていた。これ以降の信長の戦いは、足利幕府を支持する勢力との戦いという一面を持ってくる。

毛利輝元像

義昭追放後、信長は元号の改元を朝廷に求め、いくつかの候補の中から信長が「天正」を選んでいる。信長は放火して焼いた上京に対し、地子銭30・諸役等を免除し復興を図っている。そのまま大船で近江の高嶋郡に入ると、木戸城・田中城を攻略している。

8月、朝倉義景浅井長政の救援に出陣し大嶽城に陣を布いた。大嶽の北にある焼尾丸を守っていた浅井氏家臣浅見対馬守が寝返り、織田勢を手引きして奇襲をかけてきたため落城した。さらに、越前平泉寺僧兵が守備していた丁野城(砦)を襲って手中に収めると、退却する朝倉軍を、追撃し、敦賀までの間に 3 千人余りを討ったという。朝倉軍の中核をなす武将も多くが戦死し、この中には斎藤龍興も含まれていた。当初は織田軍3万対朝倉軍2万であったが、朝倉軍はほぼ壊滅状態となり、義景は手勢のみを率いて一乗谷へ帰還した。朝倉軍大敗の知らせを受けた国内

28、京都府宇治市槇島町にあった城。かつて京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町にまたがる場所に巨椋(おぐら)池という巨大な池沼が存在していたが、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地にいた真木島氏(槇島氏、槇嶋氏、牧島氏など様々な表記あり)の槇島城である。 29、応仁の乱では畠山氏の城であったが、この頃は三好義継の居城となっている。後に信長の本願寺攻めの拠点となり、信長もこの城に入って指揮をとっている。 30、中世の中期(鎌倉時代中期・後期)ごろから、商品流通の活発化とそれに伴う貨幣経済の進展が次第に顕著となっていくと、税にあたる地子を貨幣で納入することが増えていった。これを地子銭という。地子銭は一部の都市(京)などにとどまっていたが、戦国時代ごろになると農村部でも銭貨による地子納入の事例が見られるようになった。豊臣秀吉の太閤検地によって地子は廃止され、田地へ賦課される地子は見られなくなったが、都市域において屋敷地に賦課される地代が地子と呼ばれるようになった。

の武将らで馳せ参じるものもなく、もはや義景の手勢は近習含めわずか 500 人となってしまっていたと伝えられる。当時、一乗谷城は、全国屈指の城と城下町を抱えていた。各家には専用の井戸と便所が備えられていたが、これは京都でも見られなかったものであった。城も信長との戦に備え改修がなされた堅牢なものであった。

一乗谷の復元された町並

この時、従弟で朝倉氏の同名衆筆頭朝倉景鏡(かげあきら。?-1574)31が、一乗谷を捨てて越前北部の大野郡で形勢の建て直しを図るように進言した。大野には勇猛で知られる僧兵集団を持つ時朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺があったのである。しかしこの時、すでに平泉寺の僧兵も所領安堵などを条件として信長と内通していた。景鏡の進言に従って一乗谷から大野へ移動している間に、信長軍は一乗谷に攻め入り、市街地をすべて焼きはらった。六坊賢松寺に宿をとっていたところを平泉寺僧兵と景鏡の兵に囲まれ義景は自刃している。

信長は、越前から引き揚げるとそのまま浅井に攻め込み浅井久政を自刃させている。続いて尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした 3 万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍したが、これは失敗している。しかし、11月には三好義継を攻め滅ぼしているため、この年だけで信長包囲網の主だったものが姿を消すことになった。

義昭は「当家再興」をうたって毛利輝元に援助を求めたが、困惑した輝元は秀吉に、義昭の帰洛を信長に「諷諫(ふうかん)」32するよう頼んでいる。これに信長が同意したため、輝元の使僧・安国寺恵瓊(えけい。1537-1600)が上京し信長方と交渉している。恵瓊は信長から義昭に贈られた馬と共に帰路についているが実現しなかった。

31、天正2年(1574年)、越前本願寺一揆軍の標的にされ、平泉寺に籠もるが戦死している。 32、遠まわしに忠告すること。