2024年5月 徳法寺仏教入門講座
日本仏教史24 - 足利仏教1 建武の新政から南北朝へ-
1、建武の新政
元弘3年(正慶2年、1333)6月、帰京した後醍醐天皇(1288-1339)は富小路坂の里内裏に入ると、関白・摂政・院・征夷大将軍・執政などに分散していた権力を天皇に集中させる「親政」を行うための改革を行った。翌元弘4年に建武元年と改めたことから、これを「建武の新政」という。
後醍醐天皇が帰京した時、六波羅探題配下の武士たちを吸収し「奉行所」を開き京都を掌握していた足利高氏(1305-1358)と、奈良の信貴山に立て籠っていた後醍醐天皇の第三皇子護良親王(尊雲法親王、1308-1335)は対立状態にあった。この両者の対立を解消するため、後醍醐天皇は高氏を鎮守府将軍に、護良親王を征夷大将軍に任命した。護良親王が征夷大将軍として京都に凱旋した2日後、後醍醐天皇は元弘動乱が終息した宣言文を出している。これは動乱によって得た領地をすべて無効としたことから「旧領回復令」と呼ばれているが、領地に限らず天皇が発行する綸旨なしに権利を主張すれば、国司や守護によって罰するというものであった。これ以外にも前政権の権利や判決を無効にする朝敵所領没収令・誤判再審令や、後醍醐天皇の領地を拡大するための寺領没収令などが次々と発布された。土地所有権や訴訟内容が無効となったため、綸旨を求める者が都に殺到した。さらに、新田義貞など各地で討幕に寄与した者達も恩賞を求めて全国から入洛してきたのである。これらの対応に対して
後醍醐天皇御像、清浄光寺蔵
1、平安京内になる平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所。摂関期までは平安宮内裏が皇居であったが、院政期以降になると、平安宮内裏の有無に関わらず里内裏を皇居とする例が一般化した。鎌倉時代末期から建武の新政期まで里内裏は冷泉富小路殿であったが、建武3年(1336)の兵火によって焼失した後は、持明院統の治天の君の御所として相伝されていた土御門東洞院殿が里内裏となった。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が都を脱出して笠置山に立て籠ると、足利幕府が擁立した光厳天皇が土御門東洞院殿を改めて里内裏とし、以後明治2年(1869)の東京奠都まで27代の天皇の御所となっていた。現在の京都御所である。 2、蔵人所が天皇の意を受けて発給する命令文書。本来天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した奉書を指すようになった。
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物理的に裁ききれなくなったため、7月には、朝敵は北条氏一族のみとし、知行の安堵を諸国の国司に任せるという「諸国平均安堵令」が発せられた。7月下旬からは恩賞が行われ、足利高氏一党が各地の守護職に任命されている。8月には高氏に後醍醐天皇の尊治の一字を与え尊氏と改名させ武蔵守に任じている。同時に「後の三房」筆頭北畠親房(1293-1354)の長男北畠顕家(1318-1338)が陸奥守となっている。北畠顕家はこの後、鎮守府将軍として6歳であった後醍醐天皇の第7皇子義良親王(後の後村上天皇、1328-1368)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府を、尊氏の弟足利直義(1307-1352)が義良親王の実兄成良親王(1326-1344)3を奉じて鎌倉将軍府を開いている。他に、新田義貞(1301-1338)は上野と播磨、足利直義は相模、楠木正成(1294-1336)は摂津と河内、名和長年(?-1336)は因幡と伯耆、護良親王は紀伊、後醍醐天皇寵臣の公家では、葉室光顕(1297-1335)は出羽の国司にそれぞれ任命されている。一方で天皇による親政に不要な役職は廃止していく。帰京する前に関白鷹司冬教(1305-1337)を解任して以降関白や摂政は置いていない。しかし、鎌倉幕府以降、御家人を統括する役職となっていた征夷大将軍には護良親王を任命していた。そこで8月下旬から9月初頭にかけての時期に護良親王を征夷大将軍から解任し、御家人も天皇の支配下に置いている。
翌元弘4年(1334)1月、後醍醐天皇は護良親王・成良親王・義良親王など男女合わせて36人いた子供の中から11歳の恒良親王(後の北陸朝廷天皇、1325-1346以降?)を皇太子に定めると、翌週に年号を「建武」と改めている。更に同月、鎌倉初期の承久元年(1219)に焼失してから再建されていなかった大内裏の再建を発議し、全国の地頭・御家人から年貢の20分の1を徴収することを決めている。更に3月には「楮幣」4とよばれる新紙幣と「乾坤通宝」という貨幣の発行詔書が発行されている。古代日本では「皇朝十二銭」5と呼ばれる銅銭が造られていたが普及することはなく、10世紀半ば以降は中国からの輸入に頼っていた。これらの政策を実現するために、諸国の本家職と領家職を廃することなどで財政の確保に取り組んだ。しかし、大内裏の再建や紙幣
絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵)
3、翌年の中先代の乱の際に帰京し、一時征夷大将軍となるが、短期間で停止されている。延元元年/建武3年(1336)、尊氏によって擁立された光明天皇の皇太子となるが、後に廃される。 4、日本で最初の紙幣で、楮(こうぞ)から作られていた。 5、和銅元年(708)から応和3年(963)にかけて日本で鋳造された12種類の銅銭の総称。金銭の開基勝宝と銀銭の大平元宝が天平宝字4年(760)に鋳造されているが、これらは流通を目的としたものではなかった。これより古い貨幣とされるものに富本銭、無文銀銭があるが、これは実際に貨幣として流通したかどうかは不明。 6、各地で公領経営を行っていた名主は、自ら開墾した土地が公領に収公されることを防ぐため、その土地を荘園として受領層に寄進し一定の税を納めることで、自らは荘官としてその土地を実効支配していった(職権留保付寄進)。荘園を寄進された名目上の有力貴族や有力寺社を領家
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貨幣は実現することなく終わっている。
同年10月、将軍職を解任されたことで建武政権内での発言力を失った護良親王は、武力によって足利尊氏を打倒しようとした疑いで拘束され鎌倉へ配流されている。また、鎌倉幕府討幕に貢献した赤松法則村も一旦は播磨国守護職に任じられたもののすぐに解任され、播磨国佐用荘の地頭職に降格されるなど、楠木正成・名和長年・結城親光(?-1336)7など一部の者以外は重要な地位や所領を与えられなかった。このため、この年、奥羽・関東・九州・越後・紀伊で次々と旧鎌倉幕府勢力による反乱が起きるなど、早くも武家政府の再建を望む者があらわれてきた。武家と公家の関係が悪化していったことから『梅松論』8はこの時代を「公武水火の世」と呼んでいる。
建武2年(1335)6月、鎌倉幕府時代に関東申次9を務めていた公家の西園寺公宗(1310-1335)らが鎌倉幕府第14代執権10であった北条高時(1304-1333)10の弟泰家(時興、?-1335)を匿い、持明院統の後伏見法皇(1288-1336)を奉じて政権転覆を企てたことが、公宗の異母弟公重(1317-1367)11の通報により発覚する。公宗は捕らえられたが、逃れた泰家は各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。7月、泰家は信濃国で北条高時の遺児北条時行(1325-1353)12と共に挙兵すると守護の小笠原氏を破り上野に進出し鎌倉に南下した。鎌倉将軍府の足利直義はこれを武蔵国井手沢で迎え撃ったものの破れたため、監禁していた護良親王を殺害して鎌倉を放棄し、足利氏の所領であった三河国に後退した。これにより北条時行の軍は鎌倉を占領し鎌倉幕府の再興を図った(中先代の乱)。
これにどのように対応したのかは諸説ある。『太平記』13では征夷大将軍と関東管領の地位を求
護良親王出陣図
という。国司が荘園の収公を求めてくると。領家は荘園を、院宮家、摂関家、大寺社などの権門層に寄進することでこれを防いだ。この権門層を本家という。また、本家・領家のうち、荘園の実効支配権を持つ者を本所と呼んだ。荘園が重層的に支配されると、それぞれが持つ権利を「職」と呼び、荘官・領家・本家の持つ権利を預所職・領家職・本家職と呼んだ。
7、六波羅探題攻の功績が認められ、建武の新政では恩賞方、雑訴決断所、窪所に任じられた。 8、南北朝時代の歴史書もしくは軍記物語。全2巻。作者不詳。 9、鎌倉時代の役職。朝廷と幕府の間の連絡・意見調整を行った。 10、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、神として宝戒寺に祀られている。 11、この功績によって、西園寺家を継ぐこととなった。政権崩壊後、北朝から公宗の遺児・実俊の成長の暁には家門を移譲させるという条件が出された。後に南朝へ参候し太政大臣となる。 12、南北朝のでは、南朝方の武将として戦った。この後も2度鎌倉奪還に成功したが、正平8年/文和2元年(1353)鎌倉龍ノロ(神奈川県藤沢市龍口)で処刑された。 13、、後醍醐天皇の即位から2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までの約50年間が書
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めた尊氏に対して、後醍醐天皇は関東管領だけを認め征夷大将軍に関しては答を濁したとしている。『梅松論』は尊氏が直義を救けに行きたいと後醍醐天皇に訴えたが許されなかったので独断で鎌倉に向かったとしている。『保暦間記』14では征夷大将軍を望んだが叶わず関東に向かったという。『神皇正統記』15では征夷大将軍と諸国惣追捕使を要求したがかなえられず征東将軍に任じられ関東に向かったとしている。
いずれにせよ、直義と合流した尊氏は時行軍を追いや り鎌倉を奪還している。後醍醐天皇はこの恩賞として従 二位に昇任させ速やかな帰京を求めた。しかし尊氏は帰 京を拒否すると旧鎌倉将軍邸跡に居を構え、乱の鎮圧に 付き従った将士に独自に恩賞を与えている。これは尊氏 が鎌倉で幕府をおこそうとしていることを示している。 この時、鎌倉幕府討伐の功労者である武者所所司新田義 貞が、足利尊氏が謀反を企てていると後醍醐天皇に讒言 したといわれる。これに対して尊氏は、関東にあった新 田氏の領地を没収すると、後醍醐天皇に新田義貞討伐を 要請する。しかし、後醍醐天皇はこれを拒絶すると、新 田義貞に足利尊氏追討を命じて出陣させた。謀反人とされた足利尊氏は寺に籠り恭順の意を示し たが、弟の足利直義は新田義貞を迎え撃った。弟の苦戦を聞いた足利尊氏は挙兵し、建武2年 (1335)12月、新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破ると、翌建武3年(1336)1月に入京する。後 醍醐天皇は比叡山へ避難するが、奥州から西上した北畠顕家が新田義貞と合流し、京都の足利軍 を駆逐する。九州へ落ち延びた足利軍は、肥後の多々良浜の戦いで菊池武敏率いる大軍を打ち破 ると九州の大半を味方につけた。足利軍は、持明院統の光厳上皇(1313-1364)の院宣を得ることで反乱軍から討伐軍へと立場を変え、5月に湊川の戦いで楠木正成を討ち取ると、光厳上皇を奉じて入京した。後醍醐天皇は再び比叡山に逃れるが、千種忠顕(?-1336)・名和長年・結城親光ら重臣が次々と討ち死にした。尊氏は光厳上皇の弟豊仁親王(1322-1380)を光明天皇として即位させると、後醍醐天皇に退位を求めた。9月、後醍醐天皇は皇子の懐良親王(1329-1381)16を征西大将軍に任じて九州へ派遣し、10月には新田義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて
北畠顕家(霊山神社蔵)
かれた軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。作者・成立時期は不詳。全40巻。 14、保元元年(1156)の保元の乱から暦応2年(1339)の後醍醐天皇崩御までを記述した歴史書。現在使用されている鎌倉時代の事件名称の多くは本書の記述に由来する。作者は不明。 15、北畠親房が神代から延元4年/暦応2年(1339)の後村上天皇践祚までを著した歴史書。慈円の『愚管抄』と双璧を為す、中世日本で最も重要な歴史書とされる。 16、明の洪武2年(1369)、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じた際、明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」として冊封じ、太祖からの国書を懐良親王のもとに送っている。
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北陸へ下らせ、京での劣勢挽回を図っている。しかし、同月、足利尊氏からの圧力に屈し、次の天皇は後醍醐天皇の系統にするという両統迭立の提案を受け入れ光明天皇に三種の神器を渡したが、帰京するとすぐに花山院に幽閉さてしまった。ここに建武の新政は2年半で終焉をむかえことになった。
2、南北朝の成立
建武3年(1336)12月、後醍醐は花山院を出奔すると、吉野に逃れ「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開いている。ここから、吉野朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)による南北朝の抗争が続く。これを興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は『大乗院日記目録』17の中で「一天両帝南北京也」と表現した。南北朝という言い方はかなり後のものである。
建武4年(延元2年、1337)12月、南朝の鎮守府大将軍北畠顕家は、杉本城の戦いで斯波家長(1321-1338)を破り鎌倉を征服すると、翌年1月、美濃国青野原の戦いで土岐頼遠(?-1342)を破り京都にむかった。しかし、北朝方主力が近江国から美濃に入ったことを知った顕家は伊勢国に逃れる。2月21日に大和国を占領したものの、7日後に般若坂の戦いで北朝方桃井直常(?-1376?)18に敗れて敗走する。青野ヶ原の戦いに伊勢から駆けつけていた顕家の弟、北畠顕信(1320?-1380?)の軍勢は男山に入り、顕家は義良親王を吉野へ送った後、天王寺に兵を集結させる。3月に劣勢となっていた顕信を救援するため一部の兵を差し向けたことで寡勢となっていた顕家の軍は、5月6日、石津・堺浦を焼討にすると細川顕氏(?-1352)・日根野盛治(?-?)ら北朝方勢力と交戦を続けた。これに対して男山で北畠顕信と対峙していた高師直(?-1351)・師泰(?-1351)兄弟は、兵の一部を率いて北畠顕家討伐に向かい、北朝方についた瀬戸内海水軍と共に北畠顕家を包囲した。吉野に逃れようとしたが落馬し討ち取られ、名和義高(1302-1338)・南部師行(?-1338)ら有力武将も戦死し、南朝
高師直像(足利尊氏像とも)
17、興福寺大乗院に伝来した康平3年/治暦元年(1065)から文亀3年/永正元年(1504)まで日記類を第27代門跡尋尊が編集した書物。全4巻。 18、北朝方であったが観応の擾乱では直義派の有力武将として戦い、直義没後は足利直冬を擁立し南朝勢力として戦い続けた。一旦は足利義詮に帰順するものの、再び南朝に組し北陸を中心に反抗を続けた。建徳2年/応安4年(1371)に越中五位荘(富山県高岡市)の戦いで
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軍の主力は壊滅した。これによって、北朝は北畠顕家の根拠地であった奥州においても優勢となった。北陸方面で孤軍奮闘を続けていた新田義貞も、暦応元年(延元3年、1338)閏7月2日、藤島の戦いで斯波高経(1305-1367)に敗れ戦死した。
同年8月、北朝の優勢が決定的になったことを受けて、足利尊氏は光明天皇によって征夷大将軍に任じられた。ここから1573年に織田信長によって足利義昭が京都から追放されるまで足利15代に渡る足利幕府が始まる。公家と武家の二重権力構造であった鎌倉時代とは違い、公家勢力がほぼ無力化したことで、初の武家単独政権となった。足利尊氏は明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らに諮問して『建武式目』19を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開いたが、鎌倉幕府のように全国の武家から統領としての支持を得ることは出来なかった。
暦応2年(延元4年、1339)、後醍醐天皇が死去し、義良親王が後村上天皇となっている。足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、臨済宗夢窓疎石を開山として天龍寺を開基した。
この頃、関東地方で南朝勢力の結集を図り常陸国小田城にて篭城していた北畠親房は、同年秋、後村上天皇のために、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆している。北畠親房はこの中で、帝王には血筋と神器だけではなく、徳(=政治能力)も求められることを説いている。康永2年(興国4年、1343)ごろに吉野に帰還した親房は、南朝を実質的に指導し、准三宮として皇后らに准じる地位についている。
数字は各朝の即位順
3、観応の擾乱と正平一統
敗北した後、南朝方の飛騨国司姉小路尹綱を頼りに飛騨国へ撤兵後消息不明となった。 19、構成は2項17条。第1項に「鎌倉如元可為柳営歟、可為他所否事」という設問を提示し、それに対し、政道のよしあしは居所のよしあしによるのではなく為政者のよしあしによるものであると述べ、鎌倉幕府の得宗専制以前の北条義時・北条泰時の施政を理想とし、足利幕府が正統な後継者である事を示す。第2項では、政道の理想は、万人の愁いを休めることこそ最も重要であるとして、17条の条文において具体的方針を提示し、地方行政官である守護職は戦功よりも能力を重んじて任命することや、徳政令に関わる法令が多くを占める。また、南北朝時代の社会的風潮であった「ばさら」を禁止している。
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初期の足利幕府では、執事20高師直が軍事部門を、足利直義が訴訟などの実務を担っていた。南朝との戦いは武家が中心であったので高師直は新興の武家勢力側であったのに対して、直義の扱う訴訟の多くは荘園や経済的権益を武士に押領された公家や寺社からのものであったことから既存勢力側の立場になっていった。南朝との戦が終息に向かうと、軍事担当であった師直・師泰兄弟よりも足利直義の方が力を持つようになる。ところが、貞和3年(正平2年、1347)、楠木正成の子楠木正行(?-1348)は、藤井寺の戦い・天王寺住吉の戦いで直義派の細川顕氏・山名時氏(1303-1371)を打ち破り京都を目指して進軍してきた。これに対して、翌貞和4年(正平3年、1348)に高師直・師泰兄弟が四條畷の戦いで楠木正行と弟楠木正時(?-1348)兄弟らを討ち敗死させ、さらに吉野行宮を焼き払い、後村上天皇ら南朝一行を賀名生(奈良県五條市)へ逃走させ南朝の衰勢を決定的なものにしたことで、高師直の発言力が再び増大することになる。
両者の対立が激化する中、貞和5年(観応元年、正平4年、1349)、足利直義は尊氏に高師直の悪行を列挙し執事職を罷免させ、さらに光厳上皇に高師直追討の院宣の渙発まで奏請した。これに危機感を覚えた高師直は、同年、師泰と共に京都に進軍すると御所巻21を仕掛けた。将軍御所に逃げ込んだ直義に対して高師直は、足利直義の重臣で従兄弟でもある上杉重能(?-1350)と畠山置崇(?-1350)の身柄引き渡しを要求した。足利直義はこれを拒否したが、夢窓疎石(1275-1351)が仲介し、重能・直宗の配流と直義の出家を条件に和解に至った。
足利直義に替わって、鎌倉にいた尊氏の嫡男・足利義詮(1330-1367)を京都に戻し政務統括者とし、義詮の代わりに義詮の弟・基氏(1340-1367)を鎌倉に下向させ初代鎌倉公方22としている。同年11月に義詮が入京すると12月には直義は出家して恵源と号した。ところが同月、上杉
狸の妖怪を退治する若き楠木正行。月岡芳年『和漢百物語』
20、鎌倉幕府の執事は政所や問注所の次官的役割であったが、足利幕府では代々足利氏の家宰を務めてきた高氏が執事と呼ばれるようになり、恩賞や所務沙汰などの政務にも関与した。高氏が滅ぼされて以後は仁木氏や細川氏が執事に就任する。貞治6年(1367)、細川頼之が2代将軍足利義詮の遺言によって幼少の新将軍・義満の補佐・後見を任されて以降は「管領」という呼称になった。 21、足利時代、軍により将軍御所を取り囲み要求申し立てを行った行為。6回ほど起きている。 22、、足利幕府が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利基氏の子孫が世襲した。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東10か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐である。
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重能と畠山直宗が、配流先で高師直派の越前国守護代・八木光勝に暗殺されたため、高師直と足利直義の間の緊張が再び高まることになる。
同年の4月に長門探題に任命されて備後に滞在していた足利直冬(1327?-1387?)23は、御所巻の報を知って足利直義に味方するために中国地方の兵を集めて上洛しようとしたが、足利尊氏は高師直に討伐令を出したため九州に敗走していた。足利尊氏方は足利直冬に出家と上洛を命じたが従わなかったため、再度討伐令を出した。これに対して、足利直冬は大宰府の少弐頼尚と組み、南朝方とも協調路線をとって対抗した。翌貞和6年(正平5年、1350)、各地で南朝方の武家が足利直冬を立てて挙兵した。これに対抗するために、10月28日、足利尊氏は自ら追討のために出陣し備前まで進んだ。その数日前の10月26日、足利直義は京都を出奔し大和に入ると(ここをもって観応の擾乱の開始とする)、11月20日、畠山国清に迎えられて河内石川城に入城し高師直・師泰兄弟討伐を全国に呼びかける。これに紀伊国守護畠山国清(?-1362)、桃井直常、石塔頼房(1321-1413)、細川顕氏、吉良貞氏(?-1343)、山名時氏、斯波高経らが同調し、兄弟の争いは全国に広がっていった。
関東では12月に足利基氏を補佐していた二人の関東執事、上杉憲顕(1306-1368)と高師冬(?-1351)同士が争い、直冬派の憲顕が高師直派の師冬を破り執事職を独占した。この動きに足利尊氏は備後から軍を引き返すと、北朝の光厳上皇による直義追討令が出される。朝敵とされた足利直義が南朝方に降ったことで、足利兄弟の争いは南北朝の争いに組み入れられる。直義の加勢で勢いを得た後村上天皇は、住吉大社宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、ここを住吉行宮とした。観応2年(正平6年、1351)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かっていた足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都奪還を試みたが、播磨光明寺合戦と摂津打出浜の戦いで直義軍に敗北。劣勢となった尊氏は、寵童(男色の相手)の饗庭氏直(1335-?)を代理人に立て直義との和議を図った。この交渉で尊氏は、和睦の条件として高師直の出家を挙げているが、実際には高師直の殺害を許可していたとされる。2月20日に和議が成立すると、2月26日、密約の通り高兄弟は摂津から京都への護送中、直義派の上杉能憲により摂津武庫川で一族と共に殺害されている。足利幕府に戻った足利直義は足利義詮の補佐となり、九州の足利直冬は九州探題に任じられた。
しかし高氏滅亡後も直義派と反直義派との対立は収まることがなかった。尊氏は直義派の武将
足利直冬『英雄百首』(歌川貞秀画)
23、足利尊氏の子であるが、尊氏の同母弟・直義の養子となった。
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の処罰や自派の武将に対する恩賞を次々と行うと同時に、直義派の細川顕氏を脅して自派に取り込むなど直義派の切り崩しを図った。これにより、直義派から尊氏側に離反する者が相次ぐことになった。直義と共に京都を占領していた南朝は、北朝との和議交渉を受け入れることはなかった。直義と共に調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。
7月28日、多数派工作に成功した尊氏は、近江の佐々木道誉(1296-1373)と播磨の赤松則祐(1314-1372)が南朝と通じて尊氏から離反したことにして、尊氏は近江へ義詮は播磨へそれぞれ出兵し、東西から直義を挟撃する態勢を整えた。8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名などの武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡した。
京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。この提案に対して南朝方は、北朝方にある三種の神器の譲渡と政権返上を条件としてきた。観応2年(1351)10月24日、尊氏は南朝の条件を受け入れることで直義・直冬追討の綸旨を得た。この和睦により、11月7日、北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基も更迭された。また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一された。これを正平一統と呼ぶ。12月23日には南朝方が神器を回収した。さらに南朝方は、北朝方によって任じられた天台座主始め寺社の要職を更迭して南朝方の者を据えること、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求めてきたことで足利幕府と対立することになる。
一方、尊氏は直義追討のために出陣し、12月の薩埵峠の戦いや相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、翌正平7年(1352年)1月には鎌倉に追い込んで降伏させた。直義は鎌倉の浄妙寺境内の延福寺に幽閉されたが2月26日に急死している。公には病没とされたが、この日は高師直の一周忌にあたる。『太平記』には尊氏による毒殺と書かれていることから、毒殺説を支持する研究者も少なくない。直義の死をもって擾乱の決着とされるが、西国の足利直冬による足利幕府への抵抗はこの後も続いている。
足利直義像(源頼朝像とも)
4、北朝の復活
正平一統を成した南朝の北畠親房らは、京都・鎌倉から北朝と足利勢力の一掃を画策した。ま
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ず閏2月6日、征夷大将軍を足利尊氏から宗良親王24(1311-1385?)に代えている。これをうけて、新田義興25(1331-1358)・脇屋義治26(1323-?)・北条時行らが宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉に進軍した。鎌倉にいた尊氏は一旦武蔵国まで引いたため、同18日には南朝方が一時的に鎌倉を奪回した。しかし尊氏は武蔵国の各地緒戦で勝利し、3月までに新田義宗は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、鎌倉は再び尊氏が占領した。一方関西では、閏2月19日、北畠親房の指揮下、楠木正儀(?-1388)・千種顕経(?-1377?)・北畠顕能(1326?-1383?)を始めとする南朝方が京都に進軍、翌日には七条大宮付近で義詮・細川顕氏(?-1352)らの軍勢と戦うと、義詮を近江に駆逐して入京した。北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子直仁親王を南朝方本拠の賀名生へ移し、南朝の後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条、摂津国住吉、さらに山城国男山八幡へと移して京をうかがった。義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康(1318-1388)、播磨の赤松氏らに加え、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らも布陣に加えると北朝年号を復活させ、3月15日には京を奪還した。これにより正平一統は4か月あまりで瓦解したことになる。さらに21日には男山八幡に後村上天皇を包囲し兵糧攻めにした。この包囲戦は2か月にもおよぶ長期戦となり、飢えに苦しんだ南朝方は5月11日に後村上天皇が側近を伴い脱出、男山八幡は陥落した。
正平一統の際に南朝が提示した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったことから、北朝の皇位主張は正統性を欠くものとなってしまった。さらに京都は奪回したものの、治天の君であった光厳上皇をはじめ崇光上皇や皇太子直仁親王は南朝方本拠の賀名生にいるままであり、後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されていたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥ってしまっていた。尊氏が征夷大将軍を解任されていたことで、足利氏が武家の棟梁としての根拠を失ったままの状況であった。そこで、元関白
宗良親王(菊池容斎『前賢故実』)
24、元徳2年(1330)に天台座主に任じられたが元弘の変により讃岐国に流罪となる。建武の新政により再び天台座主となるが、南北朝の対立により還俗して宗良を名乗る。延元3年(暦応元年、1338)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて陸奥国府へ向かうが座礁して遠江国に漂着し、井伊行直の井伊谷城に身を寄せる。興国元年(暦応3年、1340)に高師泰らに攻められ井伊谷城が落城。越後国寺泊や、越中国などに滞在した後、興国5年(康永3年、1344)、信濃国伊那郡の香坂高宗に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った。正平一統により征夷大将軍に任じられたが、武蔵野合戦に敗れ大河原の地に戻る。正平24年(応安2年、1369)に関東管領上杉朝房の攻撃を受け吉野に戻り再び出家している。 25、新田義貞の次男。 26、新田義貞の甥。
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の二条良基27(1320-1388)は勧修寺経顕(1298-1373)や尊氏と計って、光厳・光明の生母広義門院(西園寺寧子、1292-1357)28を治天の君とし、崇光上皇の弟・弥仁皇子が8月17日後光厳天皇として即位し、北朝と征夷大将軍職が復活した。9月27日、北朝は正平一統はなされなかったとして従来の観応からの改元を行い文和元年とした。当時は即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはなく、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとされていたため、北朝復活の要件は満たしていた。しかしこれが後の南朝正当論29の根拠となっていく。
一時は旧直義派を取り込んでいた尊氏・義詮派であったが、文和2年(正平8年、1353)、佐々木道誉と山名時氏・師義父子が所領問題で対立し、山名時氏が将軍側から離反し南朝方についてしまう。山名時氏は出雲に侵攻し佐々木道誉の武将吉田厳覚を打ち破り出雲を制圧すると、そのまま南朝の楠木正儀(?-1388)と連合し摂津の戦いで足利幕府軍を破り、6月、京都に突入する。この戦いで道誉の息子佐々木秀綱が戦死、義詮は美濃にまで落ち延びることになる。しかし、尊氏が鎌倉から上京すると時氏らは京都を放棄し撤退し、足利方は7月24日には京都を奪い返されている
文和3年(正平9年、1354)、南朝の中心人物であった北畠親房が死去する。文和4年(正平10年、1355)、九州を追われた後、長門・石見で勢力を保っていた足利直冬は、桃井直常・山名時氏・大内弘世ら旧直義派の武将を糾合し南朝の楠木正儀と合流すると京都を奪還する。しかし神南の戦いで義詮の軍に破れ東寺に籠って戦うが、尊氏が率いる軍撃破され敗走した。この後直冬は西国で以後20年以上逼塞していたが消息は明確でない。
足利尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり、延文3年(正平13年、1358)に死去している。新たに征夷大将軍となった足利義詮は南朝掃討の大攻勢をかけ楠木氏の本城である河内国赤坂城などを落とした。しかし、楠木正儀は戦闘を山岳戦に持ち込んで遠征を長引かせたことで、幕府側の有力武将が相次いで離反してしまう。将軍を継いだ義詮は将軍の裁権の強化を図ったが早世によって挫折する。そして、10歳の足利義満(1358-1408)が3代将軍となった。康安元年(正平16年、1361)、足利幕府内での抗争で失脚し南朝に帰順した細川清氏(?-
『名誉三十六合戦』より『楠正儀』歌川芳
27、連歌の大成者。通算5度にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。 28、女性の治天の君、皇室の生まれではない治天の君は、いずれも日本史上唯一。 29、永く北朝が正統とされてきたが、水戸藩主・徳川光圀が三種の神器の所在などを理由とし南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことから、南朝を正当とする流れが起き、明治維新後南朝の天皇が歴代に加えられていった。
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1362)は、楠木正儀らと共闘し京都を占拠する。しかし、1月にも満たずに奪回されてしまった。また、足利直冬と共に戦った大内弘世と山名時氏は貞治2年(南朝:正平18年、1363年)には幕府に帰順している。
応安元年(正平23年、1368)4月、将軍足利義満が元服すると、管領細川頼之(1329-1392)が実権を握った。応安6年(文中2年、1373)、細川頼之は天野合戦で勝利すると南朝の臨時首都天野行宮を陥落させる。しかし、橋本正督の鎮圧(橋本正督の乱)に失敗したことから、康暦元年(天授5年、1379)初頭に失脚してしまう。細川頼之を失脚させた足利義満は、明徳2年(元中、1392)には、日本の六分の一を領有し将軍家に迫る勢力を持ちつつあった山名氏を討ち(明徳の乱30)中央集権化を進めていった。
5、南北朝の統一
明徳3年(元中9年、1392)春に、楠木氏の本拠地である千早城が落城し、南朝は軍事力を失ったことで、両朝の勢力差は歴然としたものとなり、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領31を大覚寺統の所有とすることを条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)。『大乗院日記目録』は、これを「南北御合体、一天平安」と記している。
しかし両統迭立の約束が守られることがなかったため、南朝の回復を目指しての反抗はこの後15世紀半ばまで続いた。これを後南朝と呼ぶ。正長元年(1428)に持明院統嫡流が断絶した以後、この動きは激化する。嘉吉3年(1443)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。長禄元年(1457)、赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって南朝後裔の自天王・忠義王兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、後南朝は実質的に滅亡した。最後に史料に登場するのは、『勝山記』32の明応8年(1499)霜月に、伊豆国三島に流された「王」を、早雲入道が諌めて相州(相模国)に退去させたというものがあり、これが後南朝の史料上の終焉とされている。
足利義満像(鹿苑寺蔵)
30、山名氏の内紛に端を発し、南朝に組した山名満幸・氏清・義理らが京に進軍した。義満は和解論を退け決戦を決め勝利した。 31、平安時代中期頃以降の公領。この当時、既に実体はなかった。 32、甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした富士山北麓地域の戦国時代の年代記。。
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